おそらく、僕が本当に優れている、もしくはいくらかの影響なり衝撃なりを受けた「記憶」がある、と考えている、「エレクトロニカ」と呼ばれる音楽群に属するモノを創っている音楽家は、oval(=マーカス・ポップ)だけではないだろうか。確かにダブ・ミュージックを導入し、音によりクールで透徹された感性を吹き込んだkit craytonやpole、またジャズを断片化させ、データとしてのジャズを再構築させたjan jelinekらを擁するドイツのスケープ・レーベルのアクチュアリティや、スーサイドの狂気を現在に幽霊として(もしくは幻影として)表出させ、エレクトロニックな諧謔を示したpan sonic(panasonic)の音楽的な面白さにもいくらかの敬意と評価を与えているつもりである。しかし、彼らはそれぞれ「ダブ」であり、「ジャズ」であり、「前衛」である。「前衛」といったものの、ギリギリでpan sonicはエレクトロニカに入り込むのかも知れない。しかし、やはり「エレクトロニカ」という言語ではどうも収まりが悪いのも事実だろう。
ovalに戻ろう。なぜ、僕が彼の音楽に惹かれ、そこに他のエレクロトニカ・ミュージックと一線を画す何かを見出すのか。技術的な面、つまりは彼のラップトップにおける演奏法や、サウンド作りにおけるコンピューターの駆使の仕方や、如何なる音をサンプリングし、それをどのように連結し解体しているか、などといったことはそれを語るに相応する人たちがやれば良い。そもそも僕はマーカス・ポップという人物が「oval」という記号で自らを称して音楽を提供している時点で、その記号の向こうの身体に関心は全く無い。僕が語るのはあくまでも「ovalを聴くこと」という体験に凝集する。それ以外でもそれ以上でもない。もしその語りが外部へと連結する際は、そこはすでに「エレクトロニカ」の場では無いだろう。なぜなら僕は彼以外の「エレクトロニカ」にはほぼ関心が無いからだ。おそらく僕は以降も、佐々木敦のようにそこに対して未来的な可能性を見出したりは出来ないだろう。これもまた、僕の凡庸ないくらかの「エレクトロニカ体験」を通して語られている。
ovalが鳴るとき、そのとき音はゼロになる。もしくは限りなくゼロに近づく。これが僕のovalへの評価であり、僕がovalを優れていると感じる唯一の要因であり、また彼の音楽はただその一点に対してのみ突き進んでいく。つまり僕は「ゼロ」について語ることになる。しかし、それはとてつもなく難解な思考に接近することもまた、あり得るのである。存在しないもの、不可能なもの、圧倒的な他者。しかし僕はそんなスタミナも知性も持ち合わせていないので、極めて簡易なレベルで言説を進めたい。
では、「ゼロの音」とはどのようなものか。それを明示する際に、そこと対置的な状況にある音楽を提示することがおそらく一番の早道であろう。「ゼロの音楽」と対置する音楽とは何か。「アンビエント」である。「アンビエント・ミュージック」はその音楽が鳴っていることによって、逆説的にその外部環境の音、つまりは「彼」がいる場所には常に無数の音が鳴っている、ということを「聴かせる」、「現前化する」ことを主目的としている。サウンド・システムから鳴らされる音が全てではない(むしろそんなものはそこではどうでも良い)、我々は常に「音」に、「音楽」に囲まれているのである、言い換えれば「音のゼロ状況」は日常に存在しない、そう聴衆に(無言で)呼びかける音楽である。4分33秒間、何も音が鳴っていない状況を恣意的に創り出すことによって、逆説的に環境を表出化させるという、ジョン・ケージの『4:33』の亜流であり、おそらく現状の多くの「エレクトロニカ」はこの潮流にある。
以前、僕は大友良英とsachico Mによるfilamentを批判した際にも言及したが、こういった音楽は「余計なおせっかい」、もしくは音楽という芸術体系のある種の仮想上部構造から行なわれる暴力的擬似啓蒙行為である。彼らの「音楽」(と僕は考えていないが)は、聴衆に対してあたかも神のように、もしくは自らが音楽のグールーであるかのように、「音楽はサウンドシステムからだけではないのです。もっと耳を澄まして御覧なさい」と説いているように思える。しかしそんなものは音楽においての「偽善」であり、自己満足である。むしろ言うなら、彼らは自分の音を聴かせるのではなく、我々が何もしなくても鳴っている音をあたかも自分が鳴らしているかのような錯覚を起こさせようとしているようにも取れることにおいては、悪徳ですらある。そこには絶望的な音楽的身体への諦観のみが見える。
そしてこの点からovalは「エレクトロニカ」でありながら、「エレクトロニカ」から隔絶される。彼の音楽は「アンビエント」の系譜に絶対的に位置しない。いや、むしろ言うならば彼の音楽は「アンチ・アンビエント」である。oval作品で提示される音は、その目的をどれも徹底して「聴かせる」ことに置いている。ovalを聴く場合、oval以外を「聴く」ことができない。その理由の一つは彼が出す音に極めて不純物が少ない、という理由からだろう。そしてもう一つの理由が、音楽として、「曲」として完成している、ということが挙げられる。つまり、彼の音楽には曖昧さが無い。
音に不純物が少ない、というのはおそらく彼の音作りに直接的に起因しているものであろうから、その点には細かく触れることが出来ないのだが、ただ音が極めて「純粋」なせいで聴覚へダイレクトに介入してくる、ということが他の音の遮断に繋がるのでは無いかと考えている。また彼の音楽は極めて構築性が高く、即興性など微塵も感じないのだが、その余地の無い音の層によって組み立てられた音楽はあまりにも美しく、その断面のどこを取ってもハッとさせられる。つまり、そこで鳴らされている音楽が圧倒的に環境音から優越されているため、聴衆は外部の音を聴く隙を与えられないのだ。
しかし、上述の点では優れたロック・ミュージックやジャズ・ミュージックと同じである。まあ優れている、という点では同じなのだが。しかし音自体がゼロに至る、という点では異なる。この点で共通しているのは強烈なインプロヴィゼーションを聴く、という「体験」が挙げられる。しかし、これもまたovalが音をゼロにしてしまう手法とは異なる。ovalの音楽がなぜ、音をゼロにするのか。それはovalの出す音自体が限りなくゼロに近いからである。何とも言葉遊びのようにも聞こえる言い回しだが、事実、そうなのである。無音に近い、とかそういった類のものではない。実際、『ovalcommers』などの作品は非常に多くの音が鳴っている。しかし「鳴っている」という事象とは対照的に、鳴らされている音の構造そのものはゼロに近いのである。先程、僕は「ovalは<アンチ・アンビエント>である」というようなことを言ったが、実際にはovalの出す「音自体」はアンビエント・ミュージックにかなり接近するのである。アンビエントはそもそも鳴らされる音自体がゼロになることを目的としている、とは前半に述べた。しかし、そこで徹底的な差異が生まれる。あくまでovalの音は「聴かせる」のだ。そして聴衆は「聴かざるを得ない」のである。しかしその音は限りなくゼロに近いものなのである。つまり我々はovalを聴く際、必然的に「ゼロの音」を聴くこととなる。
「ゼロの音」を聴く、ということは一体何の意味があるのだろうか。そう考えるのが普通であろうと思うので、ここで少しだけその意味について書いてみたい。まず、ovalの音楽自体がとてつもなく美しく、電子音楽としてそもそも優れているということは先程書いた。実際『dok』という作品は僕が最も好きな作品であり、また前述した「アンビエント・ミュージックとの隣接性」を最も分かりやすく提示している極めて美しい一枚でもあると思う。そして「ゼロの音」を聴く、ということであるが、これは「ゼロの音」を聴くことによって、自分の思考や記憶自体も一旦ゼロに還元される、という効果があるように思える。まあ僕は脳科学者でも生理学者でもないので、それを実証することは到底無理なわけなんだけれども。実際に僕は音楽を内部で整理したいときなんかにovalを聴くことがある。この感覚は聴いてみないと分からないものではあるものの、非常に突き抜けた何かがある。
この文章を書く際にあたって、前半の方はポップ・グループの『For how much longer do we tolerate mass murder?』を、後半はovalの『dok』を聴いていたのだけれど、前半は思考が異常に猥雑で散逸的、そして一発キめたかのような内的スピード感に覆われていたんだけれど、後半は逆に異様な静けさに覆われた。この静かな思考は、ある種「禅」の思想に近いのではないだろうか、とふと考えてみたりする。しかし、ポップ・グループとovalという全く逆の音楽の包まれながらも、この両者にさえ何らかの共通項があるように思える。前者は過剰なまでのノイズと音の過多的状況下で、後者は上述した純粋な音の構造で、我々の耳を徹底的に支配してしまうということだ。どちらにしろBGMには相応しくない。カフェ・ミュージックなんかが取り沙汰され、似非ラウンジ的な風潮が強まる中、BGMになり得ない強烈な音楽がもっと出てきてもいいように思う。
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そういえば一昨日くらいに久し振りに大阪のライブハウスに友人のバンドを観に行った。ロックを主に扱うライブハウスで、「扇町DICE」というところだった。そこに足を運ぶことによって、僕は一つの「絶望」を覚える。絶望、とは言い過ぎであろうか、落胆、という程度である。何に落胆したかといえば、そのライブハウスのシステムとでもいうのか、その運営構造とでもいうのか、はたまたそのスタンスとでもいうのか、とにかくそのライブハウスにおける演奏状況と観客の総合的な聴取姿勢、及びライブハウスとバンド間におけるヒエラルキー的なものの形成と、それによるそれぞれのバンド間におけるコミュニケーションの断絶、および批評性の皆無的状況、と挙げだせばキリが無いのだが、とにかくそういった、ライブハウスと音楽の取り巻く状況が最悪なところにある、僕には感じた。これはおそらくこのライブハウスに限ったことではなく、ロックを主に扱う、言ってみればロック出現以降の典型的なライブハウスの成れの果てに全て当てはまるのだろうけれども、とにかくひどい。
その日に見た演奏がどれも凡庸極まる、というか刺激も無く、ロック的カタルシスも無く、ノッペリとした印象のみしか残さなかった、ということに関しては特に触れる気もないし、またそれについて書くだけのスタミナも無い。というか一転すればただの罵詈雑言にしかなりかねない、という無意味性の坩堝(るつぼ)に放り込まれそうなので控えたい。ただ一言添えるならば、僕はいくらかのポストロックに関する批判をしてきたけれども、かといってポストロックの意義を一切無視して何らかのロック的アクションを起こそうという姿勢はあまりに滑稽である、と言いたい。90年代初期のロックにおける本格的な死、及び荒廃的状況の中で、「ポストロック」と一括りにされがちな、ロックというゾンビに対する多様なるオルタナティブな音楽的アプローチは決して無意味ではなかったし、またそれが有効であると死に物狂いで死屍たるロックの可能なる連続性を信じ、起こした行動は今なお評価されるべきではあるのだ。どうもその点を、ある意味マッチョイズムな考え方で「外道である」と排斥し、思考の硬化を無意識的に行ってしまっているように見える彼らには一つ再考してもらいたい。
しかし、そういった状況を生み出してしまっている原因の一つにも、現状のライブハウスのシステム、というものが挙げられる。そのシステム内での最大の問題点は、批評性の独占、およびそれを発端に引き起こされる批評性の皆無、という状況では無いだろうか。出演者に聞くところによれば、ライブ終了後、演奏者達はそのライブハウスの経営者にその日の演奏を批判され、あたかも相談に乗るかのように上部構造からの修正をそのバンドは施されそうになる。それはライブハウスという場所性を利用した、自らを上部構造に置き、下位にそのライブ出演者を置くことによって形成される悪質なヒエラルキーの創出を常に維持したいと考えて行なわれているように思えてならない。つまり裁定者は常に彼(=経営者)であり、それは客でもなく、他の演奏者でもない。リーズナブルな(バンド内だけでの)自己満足とたった一人の偏屈な裁定者によって成り立つ音楽が果たして面白いものになりうるだろうか。ならないだろう。またそのことによって批評性は「批評」と呼ぶにはあまりにナンセンスな「虚偽の助言」によってのみ独占され、真の批評性はその場から失われ、霧散する。つまり批評の独占によって各バンドは他のバンドの演奏を観る必要が無くなり、また観る意味自体が失われ、自ずと観客席からは足が遠のく。これによってそれぞれの未成熟過ぎる「音楽」たちはますます断絶の色合いを深め、バカの一つ覚えのように(それこそバカの一つ覚えのように)同じ演奏を繰り返す。僕は連続性の美学を語っているわけではないが、少なくとも「変化」と言う連続性には大いに意味があると感じる。徹底した断絶状況においては、その「変化」すらあまりに弱々しく、儚い。
そういったライブハウスにおける真の批評がなされる状況は、決してヒエラルキーという閉じた状況ではなく、観客とのコミュニケーションや、他のバンドとの稚拙なる音楽的な批評の中から生まれるのではなかろうか。そもそも観客ですらただ受動的であってはいけない。能動的なる観客でなければならない、と言うのが理想なのだ。そして演奏家間の関係性もまた、受動的ではなく能動的な応酬を必要している。これは決して子供論、及び教育論に関するプリミティブな意見ではなく、ライブハウスというある種の機能的な死を迎えつつあるシステムへの緊急なる要請であるように思う。そしてそれはまた、今この時代に「ロック」を機能させたいと考えるノスタルジストたちへの提言でもある。
そういった意味では、カフェやパブ(そしてそれに類するもの)といった場でのライブ演奏というものにはかなりの好意を感じてしまうし、また可能性も感じる。なぜならそこには批評性が僅かながらも存在し、また観客もただの受動的なる木偶ではない。そもそも「演奏」という行為と「聴取」という行為の間に連続性があることが大きい。そこには舞台的な意味も含めての「断絶」は無いからだ。たまにカフェ・ライブというものは非常にスノッブであり、また新しい流行であるかのように捉える人が多いが(特にロック方面の人に)、これは歴史自体がライブハウスより古いし、また絶えず行なわれてきた演奏形態であること考えれば、これに「流行の終わり」がすぐそこにある、という考えは荒唐無稽であろう。まあスノッブな場である、ということは少々認めざるは得ないが(しかし果たしてスノッブな音楽は問題であろうか。いやむしろ称揚しても良い。それはキップ・ハンラハンが第一線を張ってすでに証明している)。
まあ結論として言い切ってしまえば、ライブハウスでのロックの演奏者達及びライブハウスの運営側は、極力僕に苦痛的な状況を作って欲しくないし、またそれなりに音楽的な意味での批評性を持たせてもらいたい、ということになる。僕としては余計とは知りながらもライブハウスというシステムの問題に対して思考を巡らすなんていう馬鹿げたことはしたくないし、また演奏者間での批評性の皆無に関してどこか物悲しい気分になるのもまたナンセンスだ。こんなことばかりではライブハウスに行きたくなくなる、というのも仕方のないことなのではないかと思う。
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確か6月のアタマであったか、京都近代美術館に「ルノワール+ルノワール展」を観に行き、そして今日美術館「えき」(京都駅の伊勢丹に入っている美術館)に「アルベール・アンカー展」を観に行った。どちらもそれぞれに面白く、また考えるところも少しはあったので、全くの門外漢ながら(いや、だからこそ)、ちょっとした記録として記しておこうと思ったのだ。
まず、「ルノワール+ルノワール展」に関して。これは印象派の画家における大家としても世間一般の常識として有名なオーギュスト・ルノワールと、その息子であり、映画監督であるジャン・ルノワールのそれぞれの作品を対比させながら、閲覧者個人々々が批評的にその作品群の外在的/内在的な共通性/差異性を見出していくというなかなか面白い企画である(多分)。画家のルノワールが有名、ということもあってかお客さんの入りが、僕が今まで近代美術館に行った企画の中では最高に多かった。今までのものはそんなにたくさん入るイメージの無いものばかりであった、ということもあってだろうが。
しかし僕は息子であるジャン・ルノワールの作品というものは『ピクニック』と『フレンチ・カンカン』ぐらいしか知っておらず、しかもそういう作品があるというのを「知っている」というだけでどちらも観たことは無く、という感じであったので、この企画展で初めてその作品群に触れたことになる。しかも断片的に。それでもかなり楽しむことが出来た。というか美術館側があらかじめオーギュスト・ルノワールの絵のモチーフを息子のジャン・ルノワールが映画に転用している、という共通性を閲覧者に示してくれているので、こちらとしてはどちらかというとストレートにその共通性に「はぁー」と感心するのではなく、その親子間における作品性の差異を見出すことに関心を傾ける、という方向に自ずからなったので、自分なりの楽しみ方でこの企画展を満喫させてもらった。
で、その差異性というのがシンプルに「官能」、というか「エロス」的場面における表現上の差異である。画家のルノワールはその色彩と表情、及び風景によってそのモチーフの中に存在しているエロスを隠蔽してしまう。それは確実にその場に存在していたはずなのだが(例えば、いくらかの裸婦画があるのだが)、ルノワールの絵の中でエロスはその存在を隠し、明示的な状況下から逃れている。しかしそれによって絵はルノワールのものとなっている、という印象を受ける。それに対し、映画監督のルノワールの作品は眼に明確に映るレベルでエロスが表象する。そしてそれは画面全体に、至るところにエロスを潜ませ、かなりの頻度で聴衆を挑発する。これはある種の「映画」という構造があらかじめ持ってしまっている、逃れられない(だからこそ美しい)機構なのかもしれないが、二人の「親子」という関係性の下にある作家の差異としては非常に面白いもののように(僕には)映った。
で、次に今日行ってきた「アルベール・アンカー展」について記したい。個人的にはさきほどの「ルノワール+ルノワール展」よりも感銘を受けた。というかシンプルにこの画家が好きになった。そもそもこれに行くきっかけとなったのは、同じバイト先の女の子に勧められ、また同時に割引券をもらうという幸福に恵まれた、という一連の出来事によるものであった。実際僕は彼女に勧められるまでアルベール・アンカーという画家は知らなかったし(アルバート・アイラーなら知っているが)、そもそも美術館「えき」に行ったこともまた一度もなかった。そういった意味でかなりその子のことを信頼して行ったわけなんだが、これはアタリであった。
アンカーはスイスの画家であり、彼の故郷であるスイスの田舎村の風景(主に人物)を書き続けた。そしてそのモチーフのほとんどが「少女」である。純朴な、素朴な、少女のそのままの風景を、自らの目を通して描き続けた。確かに少女以外をモチーフにしている絵もあったのだが、大体は少女モチーフであったし、やはりそういった絵が最も美しいと感じた。「アンカーの少女達」は、何の装飾もなく、ただ「少女」なのである。エロティックなプリズムを通してその内在的なエロスを表面化させたりするのでなく、ただそこにいる少女達を描くのだ(それは彼が写実主義に立場上近い、ということも関係しているかもしれない)。ただ素晴らしいことに、彼の絵の中では少女だけが「少女」なのではなく、母親であれ、老婆であれ、「少女」として描かれるのである。これは彼の個人的な観念が入り混じった表象なのかもしれないが、それでも僕はそれを美しいと思ってしまう。よく「男はいつまで経っても少年のままであり、女だけが先に大人になってしまうのだ」という言い方をされることがあるが、それは間違っており、「男はただ年を食うごとに度胸を失い、尚且つ頭が悪くなっていくだけであり、女はいつまでも根本的には少女である」のだと個人的には考えている。ただ前者の言い回しに絆され、焦らされ、自分が少女であっても良い、ということを忘れ、強制的に自ら歪めながら大人(のレプリカ)になっていくご婦人方が多くいることは嘆かわしいが。
話が少しずれてしまいそうであるが、とにかく僕はその「アンカーの少女達」の美しさに感動し、どうしようもなく心を揺り動かされ、「恋」とでも言えばよいのだろうか、いや「恋」と言ってしまおう、そう彼女達に刹那的に恋をし、その連続のなかで精神が昂り、危うく涙を流すところであった、という真に甘いながらも官能的な、そして辛苦すらも含有してしまう体験をしたのである。非常に素晴らしい絵画群であったので思わずアンカー展の図録を買ってしまった。
で、次の日記は本来この日記と同じ日に書いたのだけれど、蛇足としてはあまりに長く、不細工極まりないし、また内容に関してもえらく断絶してしまっているので、違う日の日記として分けた。たまには妙なことにもなるものだ、と感じる。
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もはや至るところでミューザックとして聴くことが出来、それはまた有線におけるへヴィー・ローテーションに食い込んでいるからなわけで、語りうることはその一瞬で出尽くしてしまったのではないのだろうか、とすら思われるperfumeについて、あえて文章を綴ってみたい、という欲求に駆られ(そしてその欲求は動画サイトで一躍話題になった当初からあった)、いまここに彼女達(及び彼)へのいくらかの言及を行なってみたい。そもそも僕はperfumeという存在に対して熱狂的な崇拝者、というわけでもまた多少の好意を抱いている、という感じでもない。そういった意味で多少は「外部」的な視点から眺められるのではないか、そしてそれは曲りなりにも思考的な面白さというものを含有するのではないか(日本語が少しおかしい)、という個人的発案によりこの行為に至っている。「外部」なんて言葉を使うのは、あまりにポスト・モダンな、80年代を思い出させる柄谷風の言い回しで辟易してしまうかもしれないものの、ただperfumeを語る際に、80年代のポスト・モダンというワード、及びその「80年代」という感覚がひどく重要に思われるのである。80年代に生まれた僕が言うのも何なのだけれど。
perfumeの音楽は、一言で要約すれば「テクノ・ポップ」ということになり、またその言い切ってしまったかのような要約が何の違和感も持たないが特徴である。「テクノ・ポップ」、それはYMOという80年代のある側面における音楽的象徴を通過して、90年代という「失われた10年間」に多様な引用と消費を繰り返された末、徐々に「音楽」という場所から後退していった音楽の名称である。それは様々な名称の変更を繰り返し、常に「音楽」の表層へと蘇った音楽である。それはあるときは「シブヤ系」と称され、あるときは「ブレイクビーツ」、または「レイブ」といった瞬間的な輝きに迎合し、その姿を常に現し続け、そして消えていった。そして世界は徐々に「テクノ」という音楽を「エレクトロニカ」と言う呼称に変更させ、80年代から90年代にかけて一世を風靡したかのように思わせた音楽を「音楽」の表舞台から徐々に抹消していった。
ここで、ほとんどイメージの語りに類するものになるが、「テクノ」と「エレクトロニカ」の音楽的差異を示しておきたい。時代を追って話していけばこのイメージはより鮮明になる。簡潔に述べていこう。まず「テクノ」にしろ、「エレクトロニカ」にしろ、その源泉的なところを辿ればおそらくドイツのジャーマン・ロックシーンに辿り着くだろう。確かにそれ以前の電子音楽、例えばイアニス・クセナキスやジョン・ケージといった現代音楽家たちの存在も考慮に入れるべきだ、という反論が返ってくることは当然予想されうる事態ではあるのだが、しかし、彼らは前記したように「現代音楽家」なのである。ジャーマン・ロックシーンの音楽家達が彼らのような「現代音楽家」に影響を受けていることは確かであるが、それは明確にここで言う「テクノ」や「エレクトロニカ」ではなく、そのバックグラウンドにあたる、いわば「要因」とで言うべき存在であり、直接的ではない。
そういった意味で「テクノ」や「エレクトロニカ」の元祖に当たるのはおそらくクラフトワークやノイ!ということになるだろう。もしくはクラスターやハルモニア、など。彼らの時点では「テクノ」と「エレクトロニカ」の音楽的差異は明確では無い。まあ元祖であり、源泉ということになるのだから当たり前なのだが。その差異が明確に浮かび上がるのは、彼らの音楽に共振し、自分達の音楽を新たに模索し始めた80年代の音楽家達の登場まで待つ必要がある。それは海外ではウルトラ・ヴォックスやデペッシュ・モードといったニューロマ系ニューウェーブ、もしくはセカンド・サマー・オブ・ラブという退廃的享楽状況を作り上げたニューオーダーらの存在であり、日本では完全に突出して登場したYMO、といった音楽家達である。彼らの音楽はここで述べられる「テクノ」である。「電子音楽」という、音楽へのテクノロジーの導入が生み出した新しい(ように見えた)スタイルに、「ロック」という大衆消費的媒体のイメージを盛り込んだものである。いわば音楽における「演劇性」、もしくは挑発的過剰さであり、もっと簡素に言い切ってしまえば「スター性」の導入である。確かにクラフトワークらジャーマン・ロック勢もロックの導入を行なったものの、それはあくまでも純音楽的要素という側面が強く、コマーシャリズムによる大衆への挑発、及び煽動という、「スタイル」的な部分を強調しなかった。80年代では逆に、「電子音楽」をスタイルとして受け取ったのだから、厳密に言えばジャーマンロックの逆転である。
彼らの意匠を受け取ったまま、90年代へと音楽はなだれ込み、世界的には一瞬完全にグランジロック、及びオルタナロックという先祖がえり的な音楽が「テクノ」を押し潰したように見えたが、あっという間にテクノはその勢いを取り戻す。それが「ブレイク・ビーツ」というヒップホップのリズムを大胆に取り入れたケミカル・ブラザーズや、トランス、及びレイブの爆発的な流行を引き起こしたアンダーワールドの登場によって「テクノ」は時代の象徴へと舞い戻った。この時点で「テクノ」はさらにロック性を、つまりスター性と享楽性を強め、電子音楽とロックはほぼ並行的にこの時代を疾走していたのではなかっただろうか。それはある「憂鬱さ」への反動として暴発していたように思える。ちなみにこの「テクノ」を同時代的に享受した世代は今、「ワーキング・プア」といった閉鎖的な憂鬱と貧困に怒り狂っている。
その「テクノ」も、「憂鬱の時代」でもあった90年代が終わるにつれて、「エレクトロニカ」という呼称だけをあたかも変えた、という印象をもたれがちな音楽へと取って代わられていく。しかしそこには明確な音楽的差異が存在している。「テクノ」は「ロック」との親和性が高い音楽であり、ロックと寄り添うように生きてきたといっても過言ではないが、「エレクトロニカ」は「現代音楽」との密接さを強調するものである。「エレクトロニカ」の中に、ロックはほとんど見出せない。見出せたとしても、それは純音楽的要因だけであろう(こういった意味では「エレクトロニカ」は先祖がえり的ともいえる)。それはとても時代的な要因があり、我々はもはや享楽しなければやっていけないほどの憂鬱に感化されず、またその憂鬱を「踊り」に行くこと(=享楽すること)によって晴らそうという計画も立てない。もはやクラブの形態そのものが変化し、享楽を求めるのはノスタルジアの住人に(一瞬でも)なりたい人たちの特権になったのではないだろうか。レイ・ハラカミのどこに、我々は憂鬱の忘却を、享楽への歓喜を、感じることが出来るであろうか。
確かに少し強引過ぎるきらいはあるものの、「テクノ」と「エレクトロニカ」の差異はこういった感じであろうか。ではここでperfumeの方へを話を戻そう。しかし戻すには、もう少し日本における「テクノ」の歴史性(?)と平行して話していかなければならない。そしてそれはまた、おそらく「消費」というひどく80年代的なスノッブのタームを伴うものである。
80年代におけるYMOの存在、そしてその電子音楽=テクノ・ミュージックのインパクトはかなりの絶大さとポップ性を時代に寄与したものであり、そのスタイルは大衆的なポップの世界で激しく模倣されていく。そもそも「テクノ」自体が電子音楽のスタイルの模倣であるので、この時点でかなりの重層的なスタイルの模倣が行なわれていることになる。その巨大な影響下にあったのが「アイドル・ポップ」である。80年代はテクノ・ミュージックの時代であると同様に、アイドルの時代であった。この点に関してはあまりに詳しくは知らないものの(何せこの時代に対して感覚的には平行に生きていないので)、アイドルはあらゆる意味で「対象」であった。アイドルは批評家によって「記号」にされ、そしてその記号性を強調するかのように彼女達(彼ら)の歌う音楽は記号的な音楽=機械的な音楽、テクノ・ミュージックのスタイルを引用して作られるものが多かった。根本的にテクノ・ミュージックとは「身体」という場所性から乖離し、「機械」という状況下に置いて鳴らされる音楽を志向したものであり、それはクラフトワークの音楽においても明らかである(彼らは「我々はロボットである」、と曲中で謳っている)。つまり彼女達をテクノ・ミュージックに放り込むことによって、彼女達は「アイドル」という名の「記号」へとより強く還元され、多くの「ファン」(=消費者)によって記号的に消費されていった。アイドルとして消費されていった少女達はそれこそ山のように存在し、また消費され切らずすぐに捨てられていったアイドル達もそれと同等に、山のように存在したことからも、この時代はまさに「大量消費の時代」であったのだろう。
このポップにおける「テクノ」の過剰なまでの導入というのが日本では終わることが無く、「大量消費の時代」が終わった90年代には「シブヤ系」という陳腐さとかキッチュさといった、安っぽい感覚を逆に売り物にした後継者達が状況を維持し、そしてそれはやはり世界と同時進行的に「テクノ」の爆発的復権へと繋がっていく。とても個人的な観点からなのだが、日本は世界でこの状況にもっとも反応した国の一つでは無いだろうか、と感じている。過剰なまでに日本はこの潮流に迎合し、そして世界において衰退していくこの潮流に対して、日本はまだ、そう今現在ですら「終わり」を感じていないように思われる。そのように「終わり」を感じさせない理由の、最も明示的な一つがperfumeの成功ではないだろうか。最初に述べたように、彼女らの音楽はまさに「テクノ・ポップ」であり、それは「音楽」の表層から消えてしまいつつある音であるのだ。しかしそれが、何の違和感も無く、諸手を挙げて受け入れられる。この状況は一種の歪さがある。
ダフト・パンクという、時代遅れとしか思えないクラフト・ワーク〜YMO直結のテクノ・ミュージックを鳴らし、未来的なイメージを創出するために時代遅れも甚だしいまでの松本零次のイラストをジャケットに採用したフランスのテクノ・ユニットが、あれほどまでに激しく、日本の一般大衆にまで受け入れられたとき、日本人には何らかの、「テクノ」そのものに対する郷愁のようなものが存在しているのではないか、と感じた。それは「テクノ」というプリズムを通して見える80年代の「大量消費」という名の郷愁へと繋がるのでは、と感じたのだ。そしてそれは、その時代を実際的に体験していない僕らの世代にまで、連綿と受け継がれてしまっているように思えてならない。「テクノへのノスタルジー」、言いにくいので「テクノスタルジー」とでも略してしまえそうなものが、何らかの形で日本人大衆の中に存在しているのではないだろうか。
それを感じさせるのもまた、perfumeなのである。彼女達は、秋葉原という局地的な大量消費地域において、徐々に有名になり、そして彼らとその周辺が主にその「場」を繁栄させている「動画サイト」においてその人気が一気に一般化するレベルまで達したことを考えても、彼女達はその「テクノスタルジー」の幻影の集約とでも言えるのではないだろうか。事実、秋葉原の現状はまさに80年代の都市のイメージそのものである。様相は違えど、「なんとなく、クリスタル」という退屈な物語の2000年代バージョンである。またperfumeの音楽は過剰なエフェクトと音楽そのものの非身体的なイメージによって、かなり記号的な印象を与える。実際、ヴォーカルはテクノロジーによって激しく加工され、その原形はかなり想像に難いレベルまで改変されている。つまりたとえ彼女らが歌っていなくとも、聴衆である我々には何の問題も無く、ただ視覚的に「彼女達」という「記号」が歌っているというイメージを植えつけられれば良いだけ、という感覚なのだ。「彼女」という「記号」、つまり「アイドル」という「記号」(実際にperfumeはアイドルであるが) が氾濫していた80年代と全く同じ様相である。
ここで、これとほぼ同じ受け止められ方を要求するものを思い出す。「アニメ・ソング」である。僕は以前、「アニメ・ソング」と「80年代のアイドル・ソング」が同じ構造化にある、と論じてみたのだが、その点でも完全に合致してしまう。つまり、ここで簡潔に言い切ってしまえば、perfumeは一般大衆にも受ける「アニメ・ソング」、ということになる。実際に、「アニメ・ソング」も異様なまでに「テクノ」のイメージを導入している(言い換えると、とても時代遅れな手法を採用している、ということにもなるが)。ただ問題は、オタクとそれに類する人々が迎合している、俗に言う「アニメ的図像」に耐えられない人々に対して、「人間」という「身体的図像」を提供することによって、あっさり受け止められてしまった「アニメ・ソング」ということになる。実際、『チョコレイト・ディスコ』というperfumeの曲は、断片化するループメロディという点でも、想像的ノスタルジー、つまりはありもしない、もしくはあり得ることすら怪しい青春を想像的に喚起してみる=マンガ/アニメ的ノスタルジー的な物語を構築する歌詞といい、個人的には「アニメ・ソング」との差異を全く見出せない代物である。というか身体から非身体へ=機械的身体へ、という流れを汲めば最近大流行の音声ソフト、「VOLCALOYD初音ミク」とperfumeの差異すら怪しい。
90年代という時代に局地的に栄えた「テクノ」導入型ポップ・ミュージックを「シブヤ系」と呼ぶならば、perfumeはそのまんまだが「アキバ系」とでも誰かが呼び出すのだろうか?しかしこの呼称はすでに存在し、ある一定の人々を指すのに用いられているので使われないだろうか(しかし実際にperfumeの「ファン」の多数はその「一定の人々」でもある)。そもそも彼女らのプロデューサーが「シブヤ系」に対して異常なまでに執着しているように思えるので満更でもないのかも知れない。というか彼自体が「テクノスタルジー」において代表される住人であろう。まあ本当のところ、こんなことはどうでもいいことなのである。ただ、あたかも時代が円還構造を持っているかのように、今現在の社会構造が80年代の社会構造の映しのように感じられる、というような議論があらゆる場所で行なわれ、80年代にボードリャールの転用によって作られた大塚英志の『物語消費論』を論じ直したかのような『動物化するポストモダン』を書いた東浩紀が今や若手批評家の最前線を突っ走り、80年代に起こった「ロリコンブーム」が2000年代に入り、少し形態を変えて「第二次ロリコンブーム」として再び姿を現した、という現状を考えると、perfumeの成功も本当はセンセーショナルでも、違和感があることでも無いように感じる、ということを言いたかっただけである、多分。
しかし、ケミカル・ブラザーズやダフト・パンクといった享楽型テクノ・ミュージックを結果として面白く感じることが無く(つまり「クラブ」という場に関心が行かない)、またYMOの音楽に退屈さしか覚えることの出来ない僕としては、この「テクノスタルジー」というある種の病理から早く日本は脱出してくれないか、と感じるばかりなのである。享楽的音楽の最大の問題点は、無論スター性の強いロックの含めて、最終的に一方通行な関係性に終わってしまうというコミュニケーションの退屈さにあるように思う。「消費」を中心にしてしまうような、つまり双方が「消費」し合うという消耗戦のような関係性で無く(この関係性はいずれ破綻する)、相互関係の構築を目指す何かがもう少し台頭しても良いような気がする。この考え方は少し理想的過ぎるかもしれないが。
テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記
ペーター・ブロッツマンの来日によって行なわれた羽野昌二とのデュオライブを先日観に行った。つまり、日記のタイトルはその二人の共演(競演)盤から頂いているものの、この内容自体はその作品の発売と平行して行なわれたツアーの京都公演に関する内容である。
ライブそのものはまさに筆舌に尽くし難い、つまり文字通り、文章にするにも会話において伝えるにもかなりの難度を設定されてしまうような演奏であった。一言で噛み砕いてしまうならばそう、まさに「激烈」である。フリージャズ/インプロヴィゼーションの大御所とも言える二人の演奏は聴衆の感覚をあっさり飲み込んでしまい、その場に渦巻いているカオスの中に易々と引き入れてしまう。まさにその「体験」そのものがその演奏に対する感想及び批評そのものである。そういった点で、インプロヴィゼーションの醍醐味、とでも言えばよいのだろうか、その演奏者のプレイに感応する観客の批評性そのもの(要は演奏を聴き、何かしらのイメージなり何なりを抱くこと)がまたその場における表現全体へと直接的に連関し、昇華されていくこと、そしてその連続がその「場」を駆け巡るという「体験」を共有する、そういった一連を存分に楽しむ、及び受容できるライブ、という意味で非常に素晴らしいものであった。
僕は去年のブロッツマン来日時における羽野×ブロッツマンの演奏も聴いているのだが、そのときと今回とでは、ブロッツマンの演奏がかなり違った。いや、「違った」という言い方は正確でないし、また「前回と違う」こと自体はむしろ当たり前である。演奏スタイルの前提として(というかあらゆる音楽演奏に当てはまるとも思うのだが、そう言い切ってしまうと色々と誤解を生みそうなので省略する)「一回性」というものは確実に関係してくる、という意味で、だが。そうではなく、ブロッツマンの演奏におけるテンション、とでも言えば良いのか、とにかく彼は今回非常に楽しそうに演奏していた、という印象がある。そしてまた、そういった状態における演奏であるため、インプロヴィゼーションのイメージを羽野がブロッツマンのものを優先する場合が比較的多かった、というあたりもまた今回のライブが面白く感じた要因の一つである。
最近の彼(ブロッツマン)の演奏は、以前(と言ってもかなり以前になるが)のような、音の断面図をこちらに見せ付けるかのような、つまり表と裏がひっくり返って内臓だけの音の機構を投げかけるかのような、ある種の過剰さによって構成されたと思わせる演奏ではなく、時折見せる美しいフレーズとモチーフを音の隙間に介入させつつ、またその音自体を意識的に断片化させ、多様なる音の差異を構築しながら瞬間的な壮大さを聴衆に投げかける、というスタイルへと転向しているようだ。その、音で埋め尽くしながらも、境界に挟み込む長いブレスを主体にしたモチーフの多用がかなりのインパクトを持たせる、というイメージは多くの聴衆に(勿論良い意味での)アルバート・アイラーの亡霊(まさに「ghost」である)を見出してしまう人も多かったのではないだろうか。またフレーズのいくらかは東洋的、もしくはアフリカ的な音階を彷彿とさせるものが見られ、特にこの瞬間における羽野昌二との共振は個人的に素晴らしかった。羽野のシンバルを用いた金属的/祭儀的な演奏手法はブロッツマンの演奏と相俟って一つの呪術的空間/聖的瞬間を我々に提供する。それにはただ圧倒されてしまうしかなかった。
そういえば、彼らの演奏を聴いていて感じたのだが、あれだけの抵抗し難い、つまり不可抗力的な音の空間に放り込まれるとき、僕は一種の無音空間にいるような感覚に襲われた。つまり、音はそこで鳴っているのだが、圧倒的な音で飽和したその空間はあたかも無音のように感じられるのだ。これにはちょっと驚いた。そしてその「有=無音」状態というのはとても心地良く、ある種のトリップ感を引き起こす。緊張感のあるトリップ状態。またその演奏の中で僕は聴きながら非常に多くのこと、つまりその演奏のことから言ってしまえばいつかの食事のことまで、を半無意識状態で連続的に考え続けてしまう、ということをしていた。もともと何も考えずに演奏を聴けない、というか演奏されているものを聴く際は常に何かを考えてしまう質なのだが、その状態が異常加速されているということがその演奏中、僕の中で行なわれていた。これも考えすぎた挙句、その思考が飽和を軽々と超えてしまい「何も考えていない」状態にひどく近接していた。これもまた一種のトリップ状態であり、後々振り返ってみるとかなり面白い事態のように感じられた。
最近の(というか昔から色々と行なわれているものではあるが、最近特に顕著に、という意味で)現代音楽崩れ、とでもいうべき音響派の演奏家達の中に、恣意的に無音空間、及び無音状態を作り出そうする人たちを見受けられるが、彼らの暴力的ともいえる(そしてその暴力を正当化しようとしている)スタンスに対して、こういった観点、というのはつまり、当初の目的が音を出し、その中で音を模索し、革新させ、オルタナティブな刹那的(?)有音空間を創造しようという運動が、非意図的に無音空間に限りなく近い状況を生み出し、尚且つそこには音による暴力の正当化も閉鎖的な音楽共同体をも目論まない「音楽の自由」とでも言うべきものがあるということが、どれだけ重要であり、どれだけ強く輝くものであろうか、と思うのである。「聴く」ことの自由を結果的に廃絶しようとしている(ように僕には感じられる)音楽に対して、優れたインプロヴィゼーションはまだ大いに価値がある、と今回のライブでは感じた。勿論インプロヴィゼーションの中には音楽の暴力性に訴えようとしているものがあるし、そもそもそういった可能性を持っているものがインプロヴィゼーションだけではない、ということもまた一切否定しないが。
最近二本続けてヴィム・ヴェンダースの初期作を(ビデオで)観たのだが、彼はかなりのロリコンなのだろうか、とどうでもいいことに考えを巡らしてしまった。『都市のアリス』と『まわり道』を観たのだけれど、どちらもそこに出てくる少女の魅力が異常なのである。少女を(日常から映画の中へ)切り取る、という意味で彼の撮り方は恐らく完璧に近いのではないのだろうか。少なくとも僕は驚愕し、少女達に陶酔させられてしまった。そしてこの二作品を通じて少女は「言葉」と「振る舞い」という重要な二点でそれぞれに解体され、そして二つを通して補完される。まさに少女をコレクションするかのように(澁澤龍彦のパクり)。そんなことが出来るのは、やはり日頃から少女を強く愛し、眺め、想像する人間=ロリコンでないと出来ないはずだ、というとても不健康な固定概念からこういった考えに至ったのだが、どうなのだろう(いや、どうでもいい)。しかし、とりあえずこの二作品は極めて優れた少女映画、というイメージを僕の中に焼き付ける、という結果になった。まあつまりは面白かった、という話で終わっても良いのだが。
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