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<title>超表層的日常批評宣言</title>
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<description>如何に卒業するかを語るわけではなく、如何に日常を生きるかを批評するわけでもなく、そもそもタイトルに意味が付されていない</description>
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<title>神戸在住批評宣言</title>
<description> 　「批評宣言」という語句があまりに不適当である。僕が今からここに書くことは一切の批評性を孕んでいないだろうし、ただこの瞬間の情動がエクリチュールというかたちをとって表象するに過ぎないだろう。一切はただ木村紺の『神戸在住』の最終巻を読み終えたという瞬間からの連続的で主観的な「私」の洪水である。　前述したように木村紺の『神戸在住』の最終巻を今さっき読み終えた。かなりゆっくりとした時間をかけて全巻(10巻)
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<![CDATA[ 　「批評宣言」という語句があまりに不適当である。僕が今からここに書くことは一切の批評性を孕んでいないだろうし、ただこの瞬間の情動がエクリチュールというかたちをとって表象するに過ぎないだろう。一切はただ木村紺の『神戸在住』の最終巻を読み終えたという瞬間からの連続的で主観的な「私」の洪水である。<br /><br />　前述したように木村紺の『神戸在住』の最終巻を今さっき読み終えた。かなりゆっくりとした時間をかけて全巻(10巻)を読み通したのだが、この作品はそれだけの時間的／空間的な膨大さを孕んでいる。とてもじゃないが初見において一晩で読み通そうと思える内容ではない。短編という形態をとっているものの、それは断絶した物語群では一切無く、細分化しながらも収斂していく連続性を持っている。<br /><br />　僕は神戸出身である。北区→西区というかたちで住まいを移していったのだが、ほとんど記憶は西区時代(？)から始まる。おそらく現在の神戸という土地／歴史を語る際に迂回することが不可能な出来事である「阪神・淡路大震災」も僕は西区で経験している。当たり前のようだが、この『神戸在住』を読むことは僕にとって直接的に「神戸」について考えることに繋がってしまう。僕にとって神戸とは何か？遠く離れているとは言い難い、しかし確実に「神戸」ではないこの「京都」という場所で、僕は｢神戸｣に捉えられてしまうことになる。<br /><br />　僕はある種のローカル・ナショナリズムとでもいうべき「郷土愛」が自分の中に異化された状態で存在していることを認識する。ローカルな対象への執着、それは強烈な幻想である。幻想が神戸を表象する。しかしそれは普段、自分では認識できないレベルで小さく揺らいでいるに過ぎない。だが、それはあるなんらかの(だが決して何でも良いわけでは無い、特定の)媒体によって僕の認識レベルまで膨張し、意識の前面に迫り出してくる。それを強烈に体験するきっかけとなったのが、この『神戸在住』である。<br /><br />　言い方が回りくどく、また要領を得ない形態をとってしまった。まずは『神戸在住』について記述したい。この作品は辰木桂(主人公)という「異邦人」(東京出身者)を神戸に召還(引越し)することで、その都市の存在を多方向から浮かび上がらせる。ガジェットは彼女の学友であり、また神戸に住まう他者たちである。彼女(辰木桂)はこの物語内において異邦人の役目として常に異環境へと投げ込まれ続ける。それによってその空間は突如に異化されて風景は俄然浮かび上がる。その浮かび上がる対象の大半は神戸という都市であり、またその内部構造である。「都市」という空間は環境、人、造形を内包し、また「都市」という言葉はそれらも指し示す。また辰木桂は投げ込まれる続ける決起としての、ただ透明なだけの存在ではない。モノローグは全て彼女から発せられるものであり、決して無機的ではない。言うなれば彼女は透明な存在から不意に空間／物語の中心へと移行する、トリッキーな存在であり、またその移行の瞬間以降に溢れ出す彼女の内面は空間／物語を大きく揺さぶり、都市そのものすら変容させてしまう。それは読者体験としての都市感覚をも変容させてしまうのだ。<br /><br />　つまりこの作品はただの「神戸ガイド」では全く無い。それにはあまりに不親切である(内容が、という意味ではなく読まれ方が、とでも言おうか)。作品が浮かび上がらせる都市＝神戸は読者(僕)の幻想を大きく揺さぶる。僕が持つ「幻想の神戸」は「現実の神戸」では無い。また「『神戸在住』における神戸」もまた｢現実の神戸｣ではない。しかしそのどれもがまた｢神戸｣なのである。この多様なる｢神戸」という対象がある決起を境に同時的に体験される瞬間、その瞬間が『神戸在住』の最終巻を読んでいる際に起こったのだ。それはこの漫画の最終巻があまりによく出来過ぎていたから、ということはおそらく大きい。これほど美しい漫画の最終巻はそうあるまい。その瞬間において、僕は初めて「僕の幻想における神戸」を知ることとなった。それは私体験として、非常に強烈だった。<br /><br />　おそらく僕はこの京都という土地に対して何ら幻想を持ち合わせていない。見たままがそのまま「京都」となる。つまりそのときどきによって他愛なく変化していく環境であり、決してある支点をもってそこから眺められる風景ではないのだ。「僕はここでは異邦人の一人に過ぎない」という｢私｣に対する幻想が先行することによって、京都という都市／風景に幻想を持つことは無い。しかし、神戸に対しては都市／風景に対する幻想が「私」という幻想に先行するため、常にある架空のフィルターを通して僕は「神戸」を眺めるのである。その「神戸」はそう簡単に変容はしない。変化に対するショックすらも、幻想が支えてくれてしまうからだ。しかし、僕はその幻想は一体どんなものか知らずにいた。おそらく、知らなかった。<br /><br />　僕の「幻想の神戸」は、僕にとっての完全にヴァーチャルなヨーロッパの風景である。フランス／パリのイメージ、イタリアのイメージ、ドイツのイメージ、それらが異様なバランスにおいて混ざり合った歪な空想である。その空想を僕は神戸に当てはめていた。しかしそれは(薄々は自覚していたのかもしれないが)僕自身が認識できていない風景に対するフィルターであった。また、読んでいる際にかけていた音楽がたまたまパリのミュゼットであったことも、このフィルターの自己認識に関係しているだろう。これは単なる偶然なのだろうか。無意識の表象なのだろうか。<br /><br />　とにかくそういった風景のフィルターが存在していることに気付いたことは強烈な衝撃であった。何ともいえない居心地の悪さを感じると同時に、覚醒していく何かをまた認識もした。それは何なのか。ただそのときに考えた物事は「私」における「私」の不在に関してである。簡単に言ってしまえば「僕は今(生活全体を通して)一体何をしているのか、それが全く分からない」ということである。文字通り、漠然とした不安である。そして僕は今この瞬間、書きながらまた混乱し始めている。空を掴むこの感覚に、言明し得ないこの感情に。このあたりでこれについて書くのは止めにしたい。先が全くの暗闇と化してしまう。とにかく、『神戸在住』は漫画を読んで久し振りにやられた、という感じがした。<br /><br />　今日、もう一つ読み終えた本がある。森見富見彦の『恋文の技術』である。彼の作中、最も馬鹿馬鹿しい作品である。大いに笑える。一方向の手紙の投函という形態のみによる記述スタイルは完全にゲーテの『若きウェルテルの悩み』からの潔すぎるまで引用／模倣である。しかし、この「一方向における手紙の投函のみ」(設定上では返信があり、手紙の応酬はある、ということになっている)という文章スタイルはまさに「届かない手紙」、もしくは「届かないかもしれない手紙」である。東浩紀がデリダを通して抽出した理念に合致しているように思う。そういった意味で森見の作品は擬古文というスタイルを用いながらも、とても現代的な、言ってしまえばライトノベルとすら親和性を持ったものであると言えるだろう。ライトノベルよりはるかに面白いが。<br /><br />　いや、そもそもこの「ブログ」というものが「日記」として提示されてはいるものの、明らかに「手紙」なのである、ということもまた重要だ。これはひどく現代的な「手紙」であり、「文通」である。不特定多数に対する、返事を期待しない「届かなかった手紙」、もしくは「届かないかもしれない手紙」である。送信先は「他者」であるが、それは「私」という「他者」を含んでいるかもしれない。<br /> ]]>
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<dc:subject>批評宣言</dc:subject>
<dc:date>2009-05-01T03:29:19+09:00</dc:date>
<dc:creator>hiromasa kawabata</dc:creator>
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<title>雑記的批評宣言Ⅶ</title>
<description> 　大学を卒業し、家を引越し、しかし定職についているわけではない、というとてつもなく浮遊的な立場に至った。引越しの際にインターネットの解約／再契約という手続きが必要であり、また引越し作業に伴う労苦(要は荷造り／荷解きにあたるのだが)のせいで、2ヶ月ほど日記を書くことができなかった。この際に日記のタイトルを変更し、気分(のみ)新たに、再開という名の新規ブログ作成を行おうと思ったのだが、それすらも面倒で結局
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<![CDATA[ 　大学を卒業し、家を引越し、しかし定職についているわけではない、というとてつもなく浮遊的な立場に至った。引越しの際にインターネットの解約／再契約という手続きが必要であり、また引越し作業に伴う労苦(要は荷造り／荷解きにあたるのだが)のせいで、2ヶ月ほど日記を書くことができなかった。この際に日記のタイトルを変更し、気分(のみ)新たに、再開という名の新規ブログ作成を行おうと思ったのだが、それすらも面倒で結局この場の延長という怠惰的結果に至った。<br /><br />　上記したように僕はとてつもなく浮遊的な立場に、いわばフリーターという「なんでもない何か」になった(？)わけだが、そのせいで何か変化があったというわけではない。変化があったとすれば以前よりもやたらと広い部屋に引越し、その部屋のあるアパートは僕以外ほとんど留学生であるらしく、外国人だらけである、という環境に移行したという程度か。ここにおいては「彼」らが異邦人ではなく、あたかも「僕」が異邦人のように感じられるという一種の不可思議さが環境を支配している。おそらくそのせいでこのアパートの家賃は広さの割りにとてつもなく安い。<br /><br />　何かについて何かを書こうとパソコンを立ち上げてこのページを開いたのだが、一体何を書けばいいのか見当がつかなくなってしまった。ブランク、というあまりに不適切な言葉はここでは使わない。そしておそらく、書く元ネタはいくらでもある。<br /><br />　例えば一番近い出来事で書けそうなことを取り上げるならば、神戸の旧グッテンハイム邸で観たテニスコーツの演奏であったりするのだろう。これは単純にあまり良くなかった。僕が彼女らに過剰な期待をしてしまっていたからかもしれない。さやの声は抜群であった。しかし、「録音されたもの」と「演奏されたもの」の落差の激しさは否めない。とても今的な問題なのだろう。「演奏されたもの」は「録音されたもの」の延長上といった全く同軸的産物である必要は一切ないが、それだからこそ「録音されたもの」と「演奏されたもの」はパラレルな関係性を保ちながらも、「演奏されたもの」は「録音されたもの」に質的、感覚的価値において劣ってはいけない。それは「ライブをする」、もしくは「人前で演奏する」という行為を選んだ時点での確定的決定事項である。<br /><br />　そう、前記したとおり、あまりに今的な問題なのである。ある種のロック的価値観、ショー的価値観、つまりリアルな、仮想ではない観客に対するパフォーマンスとしての価値観という、非常に古典的な価値観が現代のアクチュアルな音楽体系の一つにまでコミットメントを持っているという問題である。例えばラップトップによる音楽作成を行うアーティスト達の「生演奏」を聴くことがいくらかの状況で耐え難いという事実がある。我々はパソコンの前に座ってマウスをいじるだけの人間を、その架空的ノイズに晒されながら眺めなければならないのである。そこに実際的な、ショー的な価値観はあるのだろうか。リアルタイムで進行するパフォーマンス性はそこにあるのか。そういった懐疑に至ってしまう聴衆はおそらく少なくない。この懐疑が、テニスコーツのライブでも散見された。<br /><br />　この問題に対して深く立ち入るだけの準備を僕はまったくできておらずに書き出してしまったため、これに関する記述はここでストップする。しかしこれはひどくナイーブでありながらも、とても重要な(音楽／パフォーマンスにおける)問題提起ではあるのだ。この点はまた後日、書き記してみたい。<br /><br />　今日、ボケーっと口ロロの『ファンファーレ』を聴いていたのだが、やはりこのバンドは結構好みだと再認識した。言ってしまえば適度にひねくれた和製ポップ／ロック、ということになるのだろうが、そのひねくれ方に小沢健二との共通項のようなものが見られる気がする。それはある種の自虐性であり、しかしまた退屈な懐疑に対する非常にポジティブな回答である。音楽は最終的に深めるためだけではなく、楽しむためにあるのだ、という標榜を掲げているようでとても小気味良いのだ。<br /><br />　意外と書けた、と今自分で驚いてしまった。　<br /> ]]>
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<dc:subject>雑記</dc:subject>
<dc:date>2009-04-14T22:52:55+09:00</dc:date>
<dc:creator>hiromasa kawabata</dc:creator>
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<title>雑記的批評宣言Ⅵ</title>
<description> 　最近、話題にもなっていたので、水村美苗の『日本語が滅びるとき』を読んだ。ネット上では賛否両論のえらい議論が繰り広げられているらしいが(それをチェックする気にはなれないのだが)、僕個人としては著者を全面的に支持したい。非常に端的に、端折って説明してしまえば、彼女は「英語」が「普遍語」としてほぼ形成されてしまった現状況下で、「日本語」を「読む」、「書く」、「話す」こと(特に前者二つ)が確実に衰退していっ
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<![CDATA[ 　最近、話題にもなっていたので、水村美苗の『日本語が滅びるとき』を読んだ。ネット上では賛否両論のえらい議論が繰り広げられているらしいが(それをチェックする気にはなれないのだが)、僕個人としては著者を全面的に支持したい。非常に端的に、端折って説明してしまえば、彼女は「英語」が「普遍語」としてほぼ形成されてしまった現状況下で、「日本語」を「読む」、「書く」、「話す」こと(特に前者二つ)が確実に衰退していっていると主張していて、このまま「全国民バイ・リンガル」という不可能性の旗印を目標に日本が突き進んでいくならば、「芸術」としての「日本語」、もっと極言するならば「文学」としての「日本語」は滅びるだろう、と考えている。<br /><br />　彼女の「日本語文学」は「日本近代文学」に集約されている。そこにおいて「日本語」は「翻訳」という行為を通して、「翻訳」という行為を越えて「現地語」から「国語」へとして昇華／構築されていく。その激烈な構築過程において、多様で優れた作品群が多く生み出されていくことになる。しかし、現在においてそれらは次第に読まれなくなり、「翻訳」という行為そのものが「文学」としてあたかも存在しているかのように見えるようになってしまった。著者はここにおいて多大な危機感を抱き、その危機感から「文学的ナショナリズム」とでも称するべきものを形成していく(本人は「文学的なナショナリズム」などとは明言していないが)。これはB・アンダーソンが主張した「言語的ナショナリズム」よりももっと限定的な対象である。故に「私」としての危機感が非常に明確に描かれるため、この本は「文学的ナショナリズム」の形成されていく過程を刻一刻と記したエッセイとしても面白い。<br /><br />　彼女の危機感には強く共鳴してしまうものがある。まず現代文学そのものが退屈であるものが多いということは納得してしまうし(実際、途中で読むのを止めるものが多い)、そのうえ「ライト・ノベル」や「ケータイ小説」までが出版の市場に「文学」として入り込んでいる現状がある。特に後者二つは「翻訳」の行為源泉が「(アニメと親和性が強い)マンガ・ゲーム」であるというある種のポストモダン性を帯びている。僕は東浩紀あたりの批評家は好きだし、彼らの著作も読むが、しかし個人的な趣味の範疇で言えば「ライト・ノベル」や「ケータイ小説」は面白いとは思えないし、また何らかの価値性・意味性があるとも思えない。あるとすれば「消費」の速度を加速させるという意味で、程度ではないだろうか。とにかくそこに「日本語」が「国語」として強化されていく課程を見出すことは不可能だろう(「無化」されていく過程なら簡単に見ることができるだろうが)。<br /><br />　そしてまた、彼女の主張を支持したい大きな要因がもう一つある。音楽において、である。音楽においてもまた、同様の「芸術としての無化」の過程がここ最近の音楽においてますます強まっている(そしてそれは本当にいつから始まってしまったのだろうか？)。音楽も、上記の「ライト・ノベル」や「ケータイ小説」のような「翻訳」過程において生み出されているものが多い。いや、大半がそうである。あらゆる場所に落ちている表層的な音楽の断片のみを継ぎ合わしていくだけの「何か」が「音楽」になっている。そこには「市場」の関わりもあろう。しかし「市場」そのものがそういう安易な消費体系にのみ因ろうとするから、結果として音楽業界全体の消費が没落したと言えるのでは無いだろうか。確かに消費の形態が変わった、という言い訳もできるのだろうが、そう答えるのはあまりにナンセンスだ。同様に、出版業界も上記のような安易で手頃な対象に頼った故に傾いたとも言えなくは無いだろう。近年はマンガですら落ち目に見える。<br /><br />　おおっと、ほとんど個人的な愚痴と化してしまった。水村美苗の本を触媒に、やたら滅多ら書くのもどうかと思えてきた。ここで話を少し良いほうに持っていきたい(?)。話を良いほうに持っていくというか、要はつい最近面白い小説を読んだのでその感想を少し書こうと思う。まあ日本人の小説ではないのだが。<br /><br />　エンリーケ・ビラ・マタスというスペインの作家が1999年に書いた『バートルビーと仲間たち』という小説である。翻訳は去年されたばかりで、朝日新聞の日曜読書欄で紹介されていたのを読んで以来、非常に惹かれていたのをつい最近手に入れ、読んだのである。また友人に「あれ、面白いよ」と薦められたのも読もうと思った理由の一つだ。「バートルビー」というのはメルヴィルの小説『代書人バートルビー』という作品の主人公であり、また(この本の中での)「否定(ノー)の作家」、「書かない作家」の代名詞でもある。この本の中では、今までに存在した多くのバートルビーたちのエピソードを巡りながらバートルビーたることを強く称揚し、また追及していく。そこにはカフカ、サリンジャー、メルヴィル、ランボオ、デュシャン、といった作家から名前だけは聞いたことのある、もしくは名前すら知らないような作家、詩人たちが目白押しで登場する。またこの作品は、日本人的にいえば「ひきこもり」のとてつもなく面白い日記としても読めるという、何ともいえない魅力に詰まった一冊である。<br /><br />　そういえば、何故か最近30代以降の女性に関する本を二つも読んだ。片方は今話題になっているから、もう片方は4、5年前に話題になり、最近友人が実はこれ面白いよと薦めてきたので。どちらも意外と面白かった。前者は益田ミリの『結婚しなくていいですか‐すーちゃんの明日‐』、後者は酒井順子の『負け犬の遠吠え』。前者はマンガであり、後者はエッセイなのだが、どちらも最終結論は同じだし、そこに至る過程も近い。ただ後者の方は強烈なアイロニーと毒気を振りまいているが、前者はひどく淡々としている。<br /><br />　どちらも僕としてはとても客観的に、眺めるように読むわけだが、何故か女性の友人にこれらを勧めたいという欲求にひどく駆られる。酒井順子の言い方を引用するならば、どちらも30代を超えてまだ独身である女性＝「負け犬」、について語られるわけだが、まあとにかく色々辛いことはあるだろうけれども、「面白いこと」に対して突き抜けるしかもはや無い、という言い切りで終わるところが非常にポジティブで良いんじゃないかと思う(両作品とも)。要は「勝ち犬」になりたければかなりの程度「面白いこと」を投げ捨てろ、と言っているという意味で「負け犬」でも面白いほうが良いじゃない、というエールを添えて手渡してみたいのだ。しかし、友人は単純に「面白いから読んでみたら」という理由で、つまりは悪意無しで、女友達に(後者を)薦めたらしいのだが、読後の感想は「この本を薦めるなんてあんまりだ」というものだったらしい。この本を読んで自分は将来「負け犬」になりそうだ、という淡い確信を得てしまった、というのがその感想の原因らしい。女心は複雑なんだなあ、と呆けたことを考えてしまった瞬間だった。<br /><br />　今度の金曜に高校以来の友人のバンドが解散ライブを行なう、という連絡が来た。ノスタルジーに浸るよりもまず、その高校という時代からそれだけの年数が経っているということに思い当たった。もはや連続的に同じ事を続けるには時間という経験的制限に、その当時からの直線状でぶつかっているということだろう。そんなことをぼんやり考えた。 ]]>
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<dc:subject>雑記</dc:subject>
<dc:date>2009-01-20T23:46:12+09:00</dc:date>
<dc:creator>hiromasa kawabata</dc:creator>
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<title>速度的絵画批評宣言</title>
<description> 　最近全然書かなかった理由は偏に僕の怠惰にある、というのは一体何度書けばよいのだろう。一度書く期間にインターバルを持たせると、そのままずるずると書かないという状況が続いてしまう。「楽だから」。ただそれだけの理由で僕は書かなくなるらしい。まことにウンザリする。　しかし、この書かない(書けない)という状況を作ったのはそもそも僕を取り巻く環境に原因がある、というルサンチマンに駆られてみたい気分になるのは、
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<![CDATA[ 　最近全然書かなかった理由は偏に僕の怠惰にある、というのは一体何度書けばよいのだろう。一度書く期間にインターバルを持たせると、そのままずるずると書かないという状況が続いてしまう。「楽だから」。ただそれだけの理由で僕は書かなくなるらしい。まことにウンザリする。<br />　しかし、この書かない(書けない)という状況を作ったのはそもそも僕を取り巻く環境に原因がある、というルサンチマンに駆られてみたい気分になるのは、最近滝本竜彦の『超人計画』というどうしようもないひきこもり型ルサンチマン・エッセイ(小説)を読んだせいであろうか。これは読み始めのうちは面白いのだけれど、だんだんと「痛さ」が加速していき、またその加速度を形成している要因がある種のループ構造をしているため、中盤以降は非常に退屈なものになる。退屈なエッセイという意味では、森見登見彦の『美女と竹林』を思い出す。これもなんというか、読みがいがなく、また文章もいくらか貧弱である。森見の小説作品は結構好きなので、これは結構な肩透かしだった。<br /><br />　と、まあ今回はこんな話を書きたいわけではない。僕は最近比較的短い期間に滋賀県立美術館で催されていた『アール・ブリュット展』と京都近代美術館で行なわれた『エモーショナル・ドローイング展』を観に行っていた。それについて書きたいと思う。<br /><br />　僕は最初、この二つの美術展は比較的近い内容、もしくはテーマ性を持ったものだと考えていた。「精神病」というある種の限界性を背負った「生」の芸術であるアール・ブリュットと、内的に蠢く自己／感情をドローイングによって表象させるエモーショナル・ドローイング、これらは確かに主催側の意図／テーマ性は確かに共通していたのかもしれないが、そこに表れる作品性、及びその印象は大きく異なるものであった。少なくとも、僕個人としての印象は大きく異なるのだ。<br /><br />　どう異なるのか。端的に言ってしまえば、『エモーショナル・ドローイング展』の作品群は概ねショボイ、ということである。そもそも僕は「アール・ブリュット」という潮流でもなく、体系を持っているわけでもない、ただ漠然と、しかし確実に何らかの共通性を持った「アール・ブリュット」と呼ばれる美術作品に出会うことによって強烈な衝撃を受けて以来、ずっとこれらに惹かれ続けている。僕は美術にとりわけ造詣が深いわけでもなく、体系だった知識を持っているわけでもないのだが、この「アール・ブリュット」と呼ばれる作品群に限ってはとてつもない魅力を感じずにはいられないのだ。その作品群が持つ、視覚を通して／超えて訴えてくる身体性、生々しさ、暴力性、そして圧倒されざるを得ない色彩の独特さ。そしてそれぞれの作品が同時に「アール・ブリュット」と呼ばれながらも、一切の同一性を共有し得ないその雑多さに、愕然とし、諸手を挙げて賞賛せざるを得ない。それはまた、僕の中に何らかの「共通性」(「同一性」では決してない)を見てしまっているのかもしれない。<br /><br />　しかし『エモーショナル・ドローイング展』で観られた作品群は、正直退屈を禁じ得ないものが多かった。特にアニメーション作品はほとんどがつまらなく、こんなものを美術館で見る価値が果たしてあるのか、取り上げる価値があるのか、と疑わずにはいられなかった。辻直之、アヴィシュ・ケブレザデの作品はアニメーション／インスタレーション作品としてはそれなりだったが、それ以外は退屈である。奈良美智は面白い、というよりは優れている、という感じで、(個人的には非常に好きなのだが)この美術展においては宣伝用として引っ張り出されている感が強く、他作品とのズレ／違和感を感じた。ただ彼の作品は純然たるパンク／オルタナロックの文脈で解体されるという音楽性に満ちていること、それが「よしもとばなな(吉本ばなな)という90年代」(これについては詳しくは述べないが)と深く関ることに何となく納得できた、という意味では見た甲斐があった。坂上チユキはこの作品展の中でも圧倒的な異彩を放っていたが、何か既視感があるなあと思っていたら案の定、『アール・ブリュット展』においても取り上げられていたのである。彼女の作品はとてつもなく美しく微細な点描によるものだが、その中に見えるある種の危険性が僕を何らかの「恐怖」に震えさせる。とても好きな作家だ。<br /><br />　しかし全体としてはやはりショボいのである。どういった点がショボいのか。それは彼らが自己で決定することのできる「私」の範囲から決して出ることなく、作品を構成しているように感じられるのである。そう「構成」しているのだ。それは構成された後にブレない「構成」である。つまり彼らはあらかじめ「私」が追いつくことのできる、思考が追いつくことのできる「速度」で作品を描いているようにしか感じられないのである。しかし、果たしてそれは「感情」の「速度」に追いつくことにできるのだろうか。「アール・ブリュット」と呼ばれる作品群は圧倒的に「速い」。その「速さ」が見る者の「感情」の「速度」すら追い抜かしていく何らかの強烈さに転換する。例えば、カレル・ハブリーチェックの作品にあるとてつもない「暗さ」に僕はひどく惹かれる。その「暗さ」は、僕の考える「暗さ」を物理的なレベルから引き離して追い抜いていくからだ。ヘンリー・ダーガーの色彩とエロスは、物語を突き抜けてユーモアを解体するのだ。<br /><br />　だが、「エモーショナル・ドローイング展」の作品群は一体何を突き抜けるのか。どこに「感情＝エモーション」に漸近する何かがあるのか。つまり彼らの作品は「遅い」のである。彼らは「知っている」場所から出ることがない。もしくは「知っている」ふりをする。それは僕にはインテリが観衆と戯れている「ふり」をしているようにしか見えない。そんなものは、当たり前のように退屈だ。少なくとも僕には退屈である。僕は「知っている」場所から一秒でも早く抜け出そうと足掻く何かを見たい。本当に「知っている」と考えている何かに追いつく／追い越すための「速さ」にぶつかりたいのである。少なくともああいった手法を用いた作品群において、その欲望に訴えてこないものを僕は評価できないのである。<br /><br />　ちなみに今回の文章はそのまま、1970～80年代のパンク／ニューウェーブと現代における音響派／ポスト現代音楽における比較、という構図にも持ち込めるように思っている。これらはどちらも音楽的背景はある程度共通しているものの、その内容において決定的な差異がある。その差異を決定付けるものの一つは「速さ」である。パンクが純粋に物理的速度を求めていた、という単純な話では収まらないものがここにもあるのだ。僕の音楽的懐疑の原点が、そもそもそこにある。<br /><br />　余談だが、この前友人に強く勧められたので桜庭一樹の『私の男』を読んだ。去年の直木賞作品である。僕は以前彼女の『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』という作品を読んで、そのライトノベルというフレームを用いた作品の中では非常に優れている、と考えていた。しかし、「純文学」という退廃した伝統を持つ表舞台に出てきた彼女の作品である『私の男』には、発表当時ほとんど惹かれなかった。直感的(と言っていいのだろうか)に、この作品は僕にはダメだろう、と感じたからである。というか彼女がその作品性を維持したまま純文学に進出してきた場合、僕が最も嫌悪感を催す類のグロテシズムが表面化するだろう、という不安があった。そしてそれは的中し、僕はこの作品がほんとど面白いと感じられなかった。<br />　<br />　どのようなグロテシズムか。男性に対する生理的嫌悪、というグロテシズムである。ゴシック・ロリータの系譜にも引っ掛かりそうなこのグロテシズム。いや、そもそも桜庭一樹は「少女」というモチーフを常に意識しながら作品を書いてきた作家であるのでそこに引っ掛かるのは当然か。この「男性に対する生理的嫌悪」はライトノベル時代ではその「ライトノベル」というフレームによって抑制され、陳腐さが表面化せず収まっていたのに対し、ここに来て開放されてしまったように思える。読者が予想したことがストーリーを追って実現してしまう、という構造はペドロ・アルモドバルの『ボルベール』という映画に共通するが、それがここでは陳腐な対象へと矮小化されてしまっているように感じる。陳腐なフロイトである。特に文体と設定においてこのグロテスクさが強調されてしまっているために、「禁制(タブー)への浸出」も逆時間的構成も陳腐な手法に見えるのだ。<br /><br />　こういうことを言っているとそれこそフェミニズム的な立場や真っ当な(?)文芸批評の立場からボロクソに言われそうだが、こればかりは耐え難い。しかし、同様の嫌悪感、というか侮蔑を含ませながら、この作品とは全く反対に軽やかに、そしてひどく巧みに作品／文章を構成してしまう金井美恵子なんかのことを考えると、単に作家の技術的な問題なんじゃないかとも思える。技術というか、思考(嗜好)というか。 ]]>
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<dc:subject>批評宣言</dc:subject>
<dc:date>2008-12-25T23:29:56+09:00</dc:date>
<dc:creator>hiromasa kawabata</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>汗批評宣言</title>
<description> 　タイトルの「汗」というのは字句そのまま、我々が日々にかく汗のことを指している。しかし、これについて何か書こうと不意に思い立ったのは今から約1分前のことである。この日記を急に書くことになった理由は、今さっき僕が観ていたAVにおいて、僕はその出演女優が性交中、かなりの汗をかいていることにやたら興奮していたことに起因する。どうもその現場が暑かったようなのだが、その「汗」に対して自分がある種のフェティシズ
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<![CDATA[ 　タイトルの「汗」というのは字句そのまま、我々が日々にかく汗のことを指している。しかし、これについて何か書こうと不意に思い立ったのは今から約1分前のことである。この日記を急に書くことになった理由は、今さっき僕が観ていたAVにおいて、僕はその出演女優が性交中、かなりの汗をかいていることにやたら興奮していたことに起因する。どうもその現場が暑かったようなのだが、その「汗」に対して自分がある種のフェティシズムを感じていることに、僕自身が驚いてしまったのだ。今までそんなフェティシズムを僕が持っている、ということに気付く機会が無かったわけではない筈なのに、今どうしてそれを急激に自覚することに至ったのだろうか。それもまた疑問であった。<br /><br />　人間はある種の排泄物にたいして何らかの性的欲求を感じる、もしくはそれにある種の神性に似た何かを見出すことがある。いわゆるフェティッシュ(物神）というものであろう。例えばバタイユなんかはそこに強く何かを見出し、排泄物に対しての強烈な死に似た語り得ない何かを見出している。まあ彼の言ってることは難しいので何を言っているのか分からないことが多いのだけれど(またそこが魅力であることも事実なんだが)。その行為は脱糞であり、排尿であり、嘔吐であり、そしてまた発汗でもある。なんとなく最後の「発汗」だけ爽快なイメージを持たせてしまうような気もするが、排泄行為の一つであることは事実のはずである。そしてまた、僕がそこに何らかのフェティッシュを見出していることも事実である。<br /><br />　しかしなぜ、僕は汗(厳密には発汗)に魅了され、またそこに今日まで気付かなかったのか。そもそも僕は、上述したように「発汗」に対して「排泄」をイコールに繋げることに少しの違和感がある。それは一般的認識上の「強烈さ」に関わるものではないだろうか。つまり他に挙げた「排尿」も「脱糞」も「嘔吐」も、普段我々は人前で披露するものではない。それゆえ他者のそれを目撃した際の「強烈さ」は凄まじいし、そこに何かを感じてしまうことも想像に難くない。しかし、「発汗」は他者に披露すること(という言い方は少しおかしいが)を日々何の違和感も無くやっている。ここに「排泄行為である」という事実と｢排泄行為である強烈さ」という観念性が齟齬を起こす。つまり僕個人の観念上では「発汗」は「排泄」ではなくなる。<br /><br />　では、一体何に惹かれているというのか。おそらく、「濡れる」という事態である。「発汗」によって「濡れる」という事態に僕は何らかのフェティシズムを感じている。「雨も滴るいい男」などという俗な言い回しがあるわけだが、何らかの形でここに接近するフェティシズムが僕の中にはある。「濡れる」という「強烈さ」、それは確かに存在する。「濡れる」こともまた、あまり日常的では無い。少なくとも他者の前で大いに濡れてみせることは、日常から少し乖離した場所で行なわれる。プールや海といった「泳ぐ」という行為に繋がる場所、「雨に降られる」という日常における事故的な事態。また、「手を洗う」、もしくは「何かを洗う」ことは厳密には「濡れる」ことではない。しかし「全身を洗う」ことを他者に見られることは非日常に属する。つまり僕は「濡れる」という一定の非日常的事態にフェティシズムを見出しているということが言える。そしてそこから僕が「発汗」に惹かれる、という事実も自ずと導きだされるであろう。事実、僕は「濡れる」という事態を持続させる「ローション」に対して、強いエロティックな何かを見てしまう。<br /><br />　そして第二の疑問、「なぜ今日まで気付かなかったのか」だが、おそらく断片的に僕はそこに気付いていた。「濡れる」という行為の延長線上で常にそこを半無意識的に認識していたことは上述のとおりであるが、それとは別に「発汗」に対して直接的に(?)コミットメントを持つ(今回のように)に至る事態は無かったのか。あったのである。<br /><br />　僕はそのAVを観たあとに一つのイメージが頭を離れなくなった。イメージ、というよりかは設定であり、物語である。しかし問題はその物語が誰に書かれたものであり、どれに入ったいたものであるのかが全く思い出せないことだ。それは非常に多汗で、セックスの際も勿論おそろしく汗をかき、ベッドシーツをびっしょり濡らした後、かいた汗に相応の水分を取る女の子の話。多分、マンガなのだ。が、それがエロマンガだったのか、それとも違うのか、はたまたもしかしたら小説だったのか。まあ小説ではないと思うのだが、確信できない。いざ思い出そうとすればその画風が見えてこないからだ。実際これを書きながらも、部屋の中をある程度の見当をつけて探しているのだが、どのマンガをめくってもどうも違いらしい。もしかしたら田中ユタカ作品かもしれない、と一瞬思ったのだが、「濡れる」ことに関しては徹底した感もある彼だが、設定の上手さはそこまで持ち合わせてはいないし、物語性も希薄だ。そして他のエロマンガにも該当は無かった。もしかしたら売ってしまったのかもしれない。一度所有するマンガの量を半分まで絞ったことがあったので。とにかく気になって仕方が無い。<br /><br />　とにかく、その短編を読んだ際ひどくエロティックな印象に打たれ、孤独に絶賛していたように思う。「想起する」という想像のレベルにおいてイメージが向上してしまっている可能性も無くも無いが、とにかくもう一度あれを読みたい。また、話は変わるが「濡れる」という意味では『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という桜庭一樹のライトノベル作品は秀逸であったと思う。あの作品の持つ「少女」と「濡れる」という二重のフェティシズムに僕はやられていた。実際、その二点を書き続けていた(ように思う)ことによってあの作品はいくらかの強度を持つに至ったとも感じる。<br /><br />　エロマンガの話が出たが、僕が去年読んだ評論系統の本で最も優れているように思ったのが、永山薫の『エロマンガ・スタディーズ‐「快楽装置」としてのマンガ入門‐』であった。退屈極まりないマンガ評論が最近横行する中で、「エロマンガ史」としての第一部と「エロマンガの多様性と分析」としての第二部に分けての構成を、それぞれ確実な文体で最後まで勢いを失わずに書き切ったことに感銘を受けた。また、それを購入するきっかけとなったのは、表紙を町田ひらくのイラストが飾っていた、ということもまた大きい。僕にとって、どうしようもなく抗い難いほどの魅力と嫌悪感を同時に持ち、またある種の「死」という魅惑に絡め取られた漫画家(エロマンガ専門)は彼をおいて他にはいない。彼についてもいつかここに書いてみたいけれど、彼の作品ついて書くこと自体がいくつかの直接的な僕の内面性に言及することに当たるので、少ししんどいだろうとためらうところもある。 ]]>
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<dc:subject>雑記</dc:subject>
<dc:date>2008-11-12T06:47:49+09:00</dc:date>
<dc:creator>hiromasa kawabata</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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