超表層的日常批評宣言

如何に卒業するかを語るわけではなく、如何に日常を生きるかを批評するわけでもなく、そもそもタイトルに意味が付されていない

フランドル批評宣言

 昨日はテストで、昼の一時過ぎあたりからのスタートということだったから、昼夜逆転状況なれども少しは睡眠をとっておきたい、というごく自然的な欲求から9時から12時という3時間の間に家で仮眠をとり、1時の15分前くらいに家を出て学校へ。テスト教室を探そうと掲示板に張り出されているテスト教室表を眺めるが、どうもその日のテスト予定に僕が受ける予定の『中南米地域研究』という退屈極まりない講義名が見当たらない。嫌な予感がし、その一週間前の予定に目を移す。そこには僕が受ける予定だったテストの講義名がある。そう、つまりは僕は一週間テストの日時を間違えた。

 たかが二単位、されど二単位だ。ひどくうんざりしたが、過ぎ去ってしまった自分の過失を嘆いても仕方が無い。とりあえず朝食をかねた昼食を取ろうと大学に併設してある『アマーク・ド・パラディ』で玉ねぎとキノコのトマトソースパスタを食べる。学食よりはるかに味のクオリティが高いし、一人で食べるにもちょうど良いため最近よくここでランチを食べる。まあ学校に来ている場合のみだけど。そうやって昼食を食べながらこのあとどうするかを考える。そして結論としてこのまま映画を観にいこうということにした。半ばヤケクソで。

 候補としては『ボルベール』か『フランドル』。僅差で僕の中でボルベールが勝ったのだが(理由は同じ監督が撮った『トーク・トゥ・ハー』観たことがあったから)、いざ映画館に行ってみるとボルベールの上映期間は終わっていた。またか、と思いながらまあフランドルも観たかったんだ、ということを自分に言い聞かしながらCOCON烏丸へ。フランドルは昨日が最終上映日でこっちはこっちでギリギリだった。まあそういう意味では得した気分になる。が、上映開始時間が19:25。そしてチケットを取りに行ったときはまだ2時過ぎ。つまり5時間も時間潰しをしなければならない。しかし時間を潰すことに関してはそう苦手ということも無いので、選択肢はすぐにいくらか浮かんだ。その中で一番妥当じゃないか、てことで(携帯用の本を持ち合わせてなかったので)ジュンク堂で小説かなんか本を買ってどっかでコーヒーを飲みながらそれを読み耽る。んで疲れたらレコ屋に行く。それで良いだろうと。

 何を読むか少し迷ったが、気分的に現代小説を読みたい、という感じだったので少し前から気にかかっていた舞城王太郎の三島由紀夫賞受賞作『阿修羅ガール』にする。最近は以前よりも人気のある現代小説を読むようになったので、去年の4月頃から付けているブクログにも現代小説が良く顔を出すようになった。これはひとえに僕が古本屋で働くようになり、現代小説も目にするようになったことが大きな要因なんだろう。そんな感じで舞城王太郎(カフェ)→レコ屋→舞城王太郎(カフェ)みたいな感じであっさり時間は潰れた。ちなみに舞城の『阿修羅ガール』はまさに批評、現代(文学)批評だと思う。女子高生のフランクな喋り口調に乗せて、引用やパロディを連続させながらもかなりの高密度で物語と批評を展開させる。世界観を平行させながら、同一軸の問題について言及する。かなり上手い。手離しで絶賛する気は無いが、優れた作家ではないかと思う。

 で、フランドルの鑑賞。そして鑑賞後、原(遊び人)夫妻にその映画館でバッタリ会う。最終日だということで同じ映画を観ていた。そのまま拉致られて居酒屋へ。気になってたから入ってみた、というその店(名前忘れた)はかなり狭い。「ちょっと狭いな〜」なんて言いながら腰を下ろし、ビールを飲む。そしてそのままひたすらなフランドル批評へ移項。もうさすがに敵わない相手二人組みなので、どっちかという相槌打つだけな感じ。というかそれだけでもう十分なぐらい話してくれる。

 『フランドル』は根本的に精神と肉体、つまりマテリアリズムとスピリチュアリズムの関係性について言及した映画だと。自然(=肉体)と文明(=精神)は常に相容れないという事実が存在する。テーマは「愛と性(と言っていいかな?)」だが「性」と「愛」を同質化させようというのは実は不可能に近い、というか不可能である。愛はどこまで行っても人口物であり、性は言ってみれば「アニマリティ(動物性)」に類する。その間には徹底した乖離があり、接近を無理強いすれば、個人に対して強い負担がかかる。それが「精神病」の発端である。また「性」は「生」に言い換え可能であり、この映画においては戦争の残酷さ、悲惨さを定義するものは常に「後付け」でしかないと考えられている。そう断定していいほどその点において表現は露骨だ。つまり「生」を追求している状況において、まさに精神の産物である残酷さや悲惨さが入り込む余地は一切存在しないのである。
 こういった問題を提起しようとするあたりはまさにフランスであり、デカルトの国である(デカルト的二元論)。そしてそれは「精神病」(フロイト)を再定義したジャック・ラカンの国だ、と。でもまあこれは才人の作品、て感じじゃなくてインテリが作った映画って感じだね、いくらかの思考手段を持ちえたインテリなら誰でも作ってしまいそうな映画だとも言えるんじゃない?まあ上手いけどね、確かに。でも10年後に見返されるものじゃない。とこういう感じだった。
 実際僕の感想もそう変わらない。絶賛には値しない。個人的な観点でいうと隠喩的に(もしくは直喩的に)フェミニズムに訴えているように見えたところが少しくどくもある。が、この手の映画の中では、論点がかなり分かりやすく作っているという点において評価できる。一切の人口音楽を排した作り(つまりはBGMが存在しない)割に、湿地を歩く足音(水が跳ねる音)や枝が折れる音といったいわゆる自然音はひどく強調していたりする、というところなんかは正にそう。闇雲に難解な作りにされるよりかはよほど好印象だ。またそういったところがカンヌの対象に選ばれる所以ではないのだろうか?作品の手法や主題という点ではカンヌで選ばれるイメージが無いにも関わらず、だ。

 先に「10年後に見返されるものじゃない」という語は非常に重要だと思う。何かを評価する一つの基準として。例えば音楽、もっと範囲を狭めてロックに置き換えれば、80年代後期にイギリスにジーザズアンドメリーチェイン(以下ジザメリに省略)というバンドがいた。彼らはデビュー・アルバムで何本ものギターのフィードバック音を用いて、当時としてはかなり過激に見えるロック・ミュージックを作った。またストーン・ローゼズ(以下ローゼズに省略)でもいい。彼らはロックにダンス・ミュージック、主にハウスのリズムの要素を取り入れた。しかしそれから10年以上経ち、今の僕らの耳に届いたとき、それはただ退屈な出来損ないの古い音楽でしかない。懐古主義的な観念を一切振り捨てて今の耳で聴けばすぐに分かることだが、彼らの音楽は「今」に対応する「力」なんか一つも持ち合わせてはいない。ジザメリのフィードバックはただの腑抜けた間抜けなギターロックの、一切の過激さを匂わせない耳障りな装飾でしかないし、ローゼズのリズムは今や使い古された、「遅れた」過去の化石でしかない。(音楽の)考古学者なら興味も出るかも知れないが、ロックの考古学なんてものがもしあったとしても、それはただの間抜けなネクロフィリアの集団だ。これと同じことは90年代のグランジ/オルタナにも、へヴィメタルにも、ケミカル・ブラザーズなんかのブレイクビーツ全盛のレイブシーンにも言える。所詮、過去の記憶の片隅でしか生き残れない。
 確かに狂人的なネクロフィリアは死体たちのパーツ同士を組み合わせて異形なるリヴィングデッドを生み出すのかもしれない。その可能性は否定できないし、成功した場合それはかなり面白いものに違いない。しかしそれはかなり特異だし、それだけ徹底している時点で目線は新しい方向に向いているのではないだろうか?
 そういった理由から僕も音楽を聴くときやレコードを買うときには常にそういう視線を持つようにしている。つまりこれに10年後はあるのか、という視点は重要だとここで再定義したい。

 時間潰しのときにワークショップに行ったのだが、そのときに店で流れていたのが珍しくキング・クリムゾンの『RED』だった。それがあのワークショップのスピーカーから大音量で流れているのはかなり凄いものだった。もうクリムゾンのダイナミズムが半端じゃない。変拍子、へヴィネス、急展開、ああ、これはやばいと。もともと『RED』はクリムゾンの中で一番好きなアルバムなもんだから興奮してしまうのだ。そして凄さを再認。やはりこのときの彼らはキレにキレていた。そして買ったのがトッド・ラングレンの『Runt』の二つ目の方。これも今聴いてたけど、たまらない。歌も、演奏も、アレンジメントも、やたらと響くのだ。他にも2枚ほど購入。あそこに行くとどうも散財してしまいがちになる。気を付けよう、と言っても行けば絶対なんか買ってしまうんだが。

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スターバックス批評宣言

 テストのおかげか否か、僕の生活がまた昼夜逆転状態になっている。今日起きたのも午後の4時だったりして、朝食(?)を食べ終えた頃には日はそろそろ傾き始め、世の人々は徐々に今日という日の終盤へと移行しようとしていた。昨日に面倒なテストが二つ終わり、ほとんど寝ないままに何故か午前5時まで起き続けるという暴挙に出てしまったのも、この生活崩壊の大きな原因の一つだ。
 そしてその大本となるのは間違い無く「ニコニコ動画」の存在である。あれだけ時間と余暇を暴力的なまでに消費させるコンテンツは他に無い。ひたすら無意味に面白い動画は無いかとウロウロしているとあっという間に2,3時間はザラに過ぎるし、アニメを順に観出したりすると半日は消費してしまう。そういえばテスト勉強中も何度かこの誘惑に負けてしまっていた。「法哲学」だの何だので荒んでしまった心を『もえたん』で潤したりして、小休憩どころでは無い時間を浪費してしまった。ちなみに今期のアニメの中で今のところ一番面白いアニメは『もえたん』だと思うのだが、あんまりこれを強調するとロリコンだとかペド野郎だとかとの非難を受けそうなので、外では言わないようにしよう。

 萌える英単語帳のアニメ化というかなりの野心的作品『もえたん』の話はまた今度にして、話を戻す。ああ、でも『もえたん』の話も書きたい・・・が書くと内容が今日の分と二つに渡ってやたらと時間と文字数を取りそうなのでやはり控える。
 とりあえずブランチをとった後、恵文社へ。大友良英特集の『ユリイカ』と山川直人の『口笛小曲集』を買うつもりだったのだが、『ユリイカ』が現在、青士社で品切れ状態で増刷待ちらしい。大友人気というかジャズ人気というか、とりあえず少し驚く。山川直人の本はあったのでとりあえずこれだけ買う。山川直人は最近の漫画家の中で下手すれば(?)僕が一番好きな漫画家である。『コーヒーをもう一杯』の一巻を読んで以来かなり好きになってしまった。彼についてもそのうち書く。

 そのあとで高野のカナートにより、その中に入っているスターバックス(以下スタバに省略)に行く。これはもう最近ではほぼ毎日欠かさず行ってんじゃないか、というくらい通ってしまっている。ここからが今日の本題。何故僕がスターバックスに通うようになったか。もともと僕はコーヒーに関してはドリップ派で(サイフォンでもいいが)、エスプレッソが特に好きなわけではなかった。コーヒーに関しては、この世のあらゆるドリンクの中で僕が最上に挙げるといえるほど溺愛しているが、基本的にはドリップで、イタリア式にエスプレッソを飲むという習慣は無かった。まあ未だにエスプレッソが非常に美味しいと感じることは特に無く、コーヒーをちゃんと飲むならドリップ式のコーヒーを飲む。京都なら六曜社かZANPANOだし、神戸ならGreens Coffee Roasterか、コーヒーと一緒に極上のジャズも味わえるMokuba's Tavern Cafeといったところだろうか。茜屋も確かにコーヒーは絶品だが如何せん値が張るのがネック。

 そういった感じでコーヒーが美味いという理由でスタバに行くわけではない。理由は妙に本が読みやすいという理由からだ。とにかく読書がはかどる。これはそもそも大学の同ゼミの女の子(現在海外に高飛び中)に「スタバって凄く本が読めるよね」と言われて試しにやってみたら本当だった、ということがあったところにスタートは遡る。それが去年の11月くらいだったから、今から半年前と少しといったところで、それ以来チョコチョコと通っていたのだが、ここのところかなりそれが激化した。このままで行くと夏休み突入後ほぼ毎日僕はスタバに行くんではないだろうかという不安(?)に襲われている。2ヶ月あるので、一日400円と計算して24000円もの金額をスタバに注ぎ込むのだろうか、と今数字に出してみてかなり恐怖している。

 しかし、何故スタバは本が読みやすいのだろうか。理由は恐らくスタバにおいては個人空間が閉鎖的である、という事実に依拠するのではないだろうか。スタバの席には隣同士に衝立があるわけではないが、見えない形でそこに個人間、グループ間を隔絶する何かが存在しているような気がするのだ。集団の中にいるのだが、そこには常に個人として(もしくはグループとして)孤立できる状況があらかじめ用意されているように感じる。喫茶店的な全体性重視の空間ではなく、個別性を重視する空間が創出されている。エヴァ風に言うならば(そして加地さん(←漢字があってるかな?)のフィールド解釈に依拠するならば)、スタバで席に落ち着き、コーヒーを飲み始めた瞬間それぞれの周辺にATフィールドが発生するのだ。こういった状況が生まれるからあたかも自分ひとりの空間でいるような錯覚に陥ることができ、本が読みやすいのではないか。ちなみにこれに近いことを吉田修一の『パークライフ』の主人公が話している。

 また現代において欠かすことのできない「ノイズ」の観念からの解釈も可能だ。僕らは一定の喧騒の中で「私」という個人が確保されているという状況にひどく落ち着きを感じる。スタバには常に一定のノイズが存在し、例えばそれは決して趣味が良いとは言えない、がしかし耳障りというわけでもない当たり障りの無いBGMであったり、隣の二人組が話す僕には全く関係性を持たないただのお喋りだったりする。それに囲まれながらも、先ほど言ったスタバ特有の個人重視の環境設定のおかげで常に「私」は確保され、落ち着いてコーヒーを飲み、本を読めるのだ。

 こんな感じできっと明日もスタバでエスプレッソ・ショット追加のスターバックス・ラテを注文するんだろう。明日もスタバ、明後日もスタバ、その次の日のスタバ・・・たまには人とまともにコミュニケーション取らないとまずいな・・・。しかしまともなコミュニケーション取れる相手ってのは思った以上に少ないものだ。実際バイトの同僚とか上司とかとまともにコミュニケーションを取っている感じは皆無だし。まあ僕個人の性格にもよる問題か、これは。とりあえずそろそろ明日のテスト勉強にでも身を入れよう。

 ジム・ホールの『アランフェス協奏曲』を買った。他にも色々買ったが、これを聴いて思ったのが、僕はかなりジム・ホールのギターの音が好きだということだ。甘く、柔らかく、高音においても決して聴覚を刺激しない、しかしそれでいて曖昧さには陥らない。非常に音響的な部分に対して神経質な人なんじゃないだろうか。ビル・エヴァンスとの共演盤を聴いても思ったのだが。とにかくずっとこのギターを聴いていたい、そんな中毒性を僕に対して持っているらしい、この人の演奏は。あと何枚かジム・ホールの作品を買ってみようと思う。

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細胞文学批評宣言

 一昨日の晩にベアーズで細胞文学を観てきた。一応そのイベント(みたいなの)の参加者全部を観に行くつもりだったが、細胞文学があまりに圧倒的過ぎて他のは全く印象に残らなかった。

 細胞文学を見るのは、以前ZANPANOで見て以来なので彼是半年振りぐらいか(いや、もっとかな)?本当に大好きなバンド(ギターとチェロの二人組)で、京都を中心に活動している音楽家の中ではダントツでこの人たちが凄いと感じている。ちなみに「ダントツ」という言葉を最初に使ったのは石原慎太郎だ(みwiki参照)。

 彼らの演奏は、あまりに甘美で、噎せ香るほど甘くて、でもひどく危険な甘さで、それはまさに官能的だ。そして文学性が強く、つまり物語的な、世界は断続的に続き、崩壊し、急に手離され、放り投げられ、置いて行かれ、だが僕はそれに追いすがりたい。僕は目を見開き、恍惚状態に陥り、ああ、僕はもう死んでしまう、そのギリギリの状態を反復させられ、蕩尽の世界へと、感覚は開かれる。

 声とストリングスが呼吸と同調して行われるかのようなその演奏は、聴衆に緊張と弛緩の交互(相互)快楽を提供しつつ、どこまでがインプロヴィゼーションなのか、という凡庸な意見はそこではひどく退屈なものにしか響かないような世界を作り出すのだから、もうたまらないのだ。

 僕らは確かにもう眼前でフランク・ザッパ、キャプテン・ビーフハート、ジョン・フェイヒー、デレク・ベイリー、ビル・エヴァンス&ジム・ホール、オーネット・コールマン&プライム・タイム、「サヴァ・サヴィ・アン」時代のピエール・バルー、「ラジオのように」の頃のブリジット・フォンテーヌ、阿部薫、高柳昌行・・・そんな彼らの演奏は聴くことはもう叶わないが、だがそこで過去の音楽に傾倒し切って幻想と逃避のノスタルジーに思いを馳せるのは馬鹿々しい。過去のデータベースを取り出してその美しさのみに太陽を当てようとする人間は死んだ老人でしかない。そうではなく、僕はシンプルに細胞文学を観ればいいと思うのだ。過去の偉人達の演奏に関しては、僕らは何らかのメディアを通して聴くということしかできないが、しかし今現在において僕らは細胞文学を目の前で観ることができる。これは十分に幸福ではないだろうか?

 実際あれだけの衝撃を受けたのは、6月に観た羽野昌二のドラム・インプロヴィゼーション以来であった。そういう意味ではこんな短いスパンでそういうものにお目にかかれるのは幸福なことだとは思うが、逆に言えばその間に観たものがその対比として何と退屈だったのだろう思ってしまう。そしてそれは「僕」という鏡像にもなり、またそれに対しての強烈なる批評でもあり、結局のところああいった物凄いものにはやたらと影響を受けしまうものだなぁと感じる。もちろん、良い意味で、だが。

 しかし僕はここ最近、何かと「ポスト・ロック」とか「音響派」とかについて、或いはそこにある可能性とかについて考えたりするもので、そういう意味で細胞文学の音楽は非常に個人的にはタイムリーでもある。ちなみにここでいう「ポスト・ロック」は「広義のポスト・ロック」のことで「狭義のポスト・ロック」のことでは無い。そもそも後者にはそんなに関心が無いのだし。

 「広義のポスト・ロック」にはペンギン・カフェ・オーケストラのようなストレンジな室内楽系音響から富樫雅彦の「スピリチュアル・ネイチャー」やONJQ+OE、キップ・ハンラハンのようなフリー・ジャズのポストモダンや、デレク・ベイリーや羽野昌二のようなインプロヴィゼーションまで含まれる。決してロックではないし、個人的にロックはすでに死んでいるとまで考えている。何故ならロックは90年代にブリット・ポップやグランジといった嘔吐を残して身を引いたはずだからだ(確かに「ローファイ」という悲しい希望を残してはみたものの、それはノスタルジアという悲劇的な逃走路を生み出したに過ぎないとも言える)。かといってロックの可能性を唾棄するつもりは無いが、ロックという通底概念には一切の可能性なんか残されていないと思う。重要なのはロックを「知っている」と言う事実であり、ロックを通過して、またはジャズを通過して、さらにその先に見えるかもしれないハイブリッドな音楽形態、それが「ポストロック」、及び「音響派」という死に物狂いの可能性だと考えている。

 だからこれに対して如何にアプローチするかが、現代の音楽に関する個人的な唯一の関心。そこにはアマチュアリズムという奇跡的な可能性も捨てられていないし、歌謡曲ですら巨大な可能性なのだ。そしてそれを掘り進める手段の一つがとにかく音楽を聴くことであって、だから結局レコ屋まわりを止めることが出来ないのだ。もちろん、レコ屋まわりが止められない理由はこれだけではない。

 これを書いている最中、ハービー・ハンコックの「ヘッド・ハンターズ」を聴いていたのだが、このアルバムはやたら安い値段でレコ屋で見つかる割りに内容は非常に濃い。ジャズ・ファンク、いやファンク・ジャズの可能性の探求が主題なのだろうけど、このハンコックのエレピはかなり凄い。物凄くタイトで、旋律ではなく徹底してリズムに重点を置き、刻まれるそのリズムが他のインストゥルメンタルのリズムに「ズレ」として介入するその手法はまさにポリ・リズム。というかそれを快く受け入れて揺れ続けるギター、ベース、ドラムのアンサンブルには興奮する。そう、そもそもファンクはポスト・ロックの巨大な動因の一つなんだよ。

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煮物最中限界批評宣言

 煮物を煮込んでいる間というのはどうにも手持ち無沙汰なもので、こう本を読んでみたりするわけだが、本が中途半端なとこでいつも煮物が出来上がってしまうという嫌な展開が待ち受けているので、今日はその間に日記を書いてしまおうという魂胆だ。要は短時間でどこまで書けるかという間抜けな挑戦である。

 ちなみに今日作っているのは、具材は大根と鳥モモ肉をメインに人参と椎茸を+α要素として、それを一旦炒めて火を通したあと醤油とだし汁のシンプルな味付けに、みりんと砂糖に因る軽い目のアクセントを加え、出来上がりにゴマ油を落として風味付けするという、ごく一般的な和風の煮物と言っていいものである。これに七味唐辛子を軽くまぶして食べると非常に酒に合う、良いツマミになる。まあ今日は晩酌をするつもりも無いので、これとほっけの開き、椎茸と豆腐の味噌汁とご飯でまあまあ悪くない和食膳にするつもりである。

 とまあそうこうしているうちにそろそろ煮えてしまう時間が来ている。何を書くべきか・・・
今現在、テスト期間ということもあってちびちびと何かの合間合間に小説を読んでいる。澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を読んでいるのだが、これは非常に面白い。そして何よりも文章が読みやすい。幻想的でエロティックであり、エキゾティシズムに溢れた澁澤節は相変わらずだが、それがこの作品では非常に読みやすい。漢字云々を別にすれば中学生にも薦められる澁澤作品ということになるような気がして(実際、冒険譚でもある)、澁澤ファンとしてはその意外性が妙に面白い。一話完結形式の短編風にもなっている点もゆっくり読めるので良い。

 このあと晩ご飯を食べたら、レポートを書かねばらない。平和と平等に関するテーマで2000字というやつを。完全に今僕がディスクールで進めようとしているテーマと重なっているので非常に書きやすいので有難いのだが、逆に言えば2000字であれ、あまり手が抜けないということになる。主題として取り上げるのは、柄谷行人のカント批評による倫理観念とそのカントの平和思想、それと柄谷行人のアソシエーションという理念に対するカント的批判をちょこっと加える、という感じでやるつもりだ。まあこれを2000字で収めようというのだから中身が多少スカスカになること請負だが、まぁ仕方ないだろう。というか内容をもう少し絞れば何とかなる気もするんだが・・・考えよう。

 ああもう煮えるな、これは。今日はこの辺で。やっぱ少し無理があったな、この企画は。内容が異常に薄い日記になった。

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京都在住モラトリアム学生批評宣言

 まあ僕のことだ。つまりの僕自身のことについて少し書く。そもそも自分で読み返す用として書いてあるという前提においてもこれはなかなか恥かしいものだ。しかしこういうのを始めた以上、書かざるを得ないような気もする。まあ今回は「敬い」についての話だ。

 まず、これを書くに至った心的状況について。最近結構売れている現代小説家の一人として嶽本野ばらという作家がいる。よく「乙女のカリスマ」として挙げられる男性作家である。で、最近文庫化された『ロリヰタ』という彼の作品が古本市場で105円で発見され(さすが古市、作家のことなんてお構い無しの一律値付けはいつも通りである)、これは良い機会なのかも知れんと言うことで買ってみた。で、これまた昼夜逆転モードに入ってる僕は深夜から早朝にかけて暇なため、今日はこいつをばーっと読んでみることにした。まあ内容としては(個人的には)大したことも無く、『「やれやれ」と村上春樹の小説の主人公のように呟いてみて〜』みたいなくだりには、中高をハルキストとして過ごした僕にはノスタルジア的な印象も残したが、結局ナボコフの「ロリータ」を野ばらなりに再解釈し、現代的アレンジを施したものとも言えるものだったのでは・・・とここで拙い文学批評をする必要は無い。
 (この日記で)重要なのは、この作品内で作者が他人との接し方について主人公に語らせる部分がある。そこで何らかの形で、自分が相手に対して敬意を表する部分が出てきて初めて自分は相手を同等な者として接することが出来る、と言う。ここを読みながら頭の中で自分の中の「敬意」についての位置付けについて考えることになった。これが出発点だ。

 で、僕は京都に来るまで、いやそれよりもう少し遡って大学に入って1年ほど経つ頃まで、他人に対して敬意を払うことはほとんど無かったと言っていい。そりゃ、僕がおそらくこの先の決して出会うことは無いだろう偉大なる音楽家や文筆家、まあ要は実生活においては幻想と言ってもいいほどの距離にある人たちには、尊敬やら羨望やらを抱いていたが、会話が出来るほどの距離にある人たちには(両親を除けば)ほぼ一切尊敬の観念など感じなかった。せいぜい自分と同レベルか、悪けりゃひどく下だ。それは父親にも指摘されるほどの面倒な自信家である、という困った事実も大いに関係しているが(そしてこれは今でもそう衰えてはいない)、僕が圧倒的に様々な人々とのコミュニケーション不足だったというのも原因だろう。今でも十分狭いが、その頃の僕の世界は信じられないくらい狭い範囲で完結していた。

 しかしその後、様々なコミュニケーションの場が僕の眼前で生まれることになった。一つは大学のゼミであり、そこには教授という学問的には尊敬して止まないが、人間的には尊敬のしようが無い人が存在し、身近なる学問の師であり、ヴィトゲンシュタインで政治を描こうするゼミTA兼大学院生がおり、図書館が主な生息地になりつつある同輩がいたりする。もう一つには、これは大きいがレコード屋であり、厳選された品揃えとあまりに膨大過ぎる音楽的知識を持ったレコード店の店主には、多種多様なる音楽の情報を頂き、全く頭が上がらない。そしてまたそれはカフェであり、そこでは閉店後に素晴らしき音楽の教えを請うことができ、営業中には自分では淹れられない(これは細やかな技術の問題に起因する)美味しさを持つコーヒーを飲むことが出来る。また友人が元々師事していた教授であり、プライベートでは「先生」と呼ばすことを許さない遊び人には、遊び方と読書の快楽と音楽について、酒と共に学んだ。各人には果てしない敬意を僕は(外に出さないように)内密に抱いている。・・・しかしまあ、やっぱ音楽中心だなぁとはこれを書いてみても思ってしまうな。

 かといって他人を侮蔑する悪癖も治ってはいない。大学以降に関していえば、サークルだのといった閉じたコミュニティから抜け出そうともしない、その温床にずっと浸って、そこに溢れうる安価な賞賛と敬意に浸かっていたいとする人たちには特にその念が強い。自分が一瞬でも所属していたという経験からも、また他のそういったコミュニティを見るに至ってもその考えは揺らがないし、反吐が出ると言っても過言ではない。そういった場所にいる人たちとはやはりいくら関わってもその関係は薄っぺらく、すぐに僕は飽食気味なる。

 しかし、こういうことを書くとやはり途中あたりで自分に対する羞恥が激しくなる。うわ、何書いてんだ、俺、消せ消せ、と何度も反証する羽目になる。日記とは見返すたびにうんざりして破りたくなるとはよく聞く。きっとこんなことばかり書くからだろうと今、自己完結的に納得し、やはり多少なりとも「私」という生々しい内証とは距離を取りつつ書くべきだな、と再認する。たまに、がベストだろう。それでもきついが。

 マイルス・デイヴィスの『in a scilent way』を久しぶりに聴き返したが、これは何と抑制的に興奮する作品なんだろうと感心してしまった。『biche's〜』前夜のこの危険な感じ、ループするサウンドに見え隠れする狂気と猟奇性はあまりに甘美である。エレクトリック・マイルスはいつ聴いても何らかの形で刺激を受けるのだが、そういう意味ではよく使いまわされる「マイルスは常に早過ぎた」という陳腐な一文も、重みを持つように感じてしまう。

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アイドル歌謡としてのアニソン批評宣言

 ここのところアニソン(=アニメソング、てこんな注釈いらんな)がオリコンランキングで他の一般的なポピュラーミュージック(ポップスに普遍性なんて存在しないが)に混ざってトップ10圏内にあっさり入るようになってきている。これはオタクが単に今や大衆であり、マジョリティである、という証明であること(つまりはオタクの文化性がよりオープンになったということ)も確かだが、この爆発的なアニソンの売り上げの要因は決してそれだけではない。環境的な要因(例えばネット上の掲示板での呼びかけ)や音楽的な要因(例えば、曲そのものに対する作り手の変化)など多岐にわたる要因がここに存在している。僕はサブカル社会学に詳しいわけではなく、少し足を突っ込んでみている程度なので、環境的要因には触れられないが、音楽的要因には多少なりとも接近できるのではないかと思い、ここに試論を展開する。

 先に結論を述べておこう。「萌え」概念の一般的認識以降のアニソンは、ポスト・アイドル歌謡である。言うなればアイドル歌謡の解体・再構築を経たポップ・ミュージックである。パンク→ニュー・ノーウェーブの流れに捉え直してもいい。

 まずアイドル歌謡について。ここでの「アイドル歌謡」はモーニング娘。などの90年代の表層的ブームという、ただそれだけで燃え尽きてしまった、ある意味仮想的と言ってもいい「擬似アイドル」は含まず、80'sアイドル歌謡のみだけを指す。確かに松浦亜弥の登場は「アイドルの誕生」という絶対的なものを持ち合わせていたし、「例外」として扱っても良い。が、やはり彼女も最終的に一歩及ばなかった。それだけの「強靭さ」と「熱情」と「社会性」を80年代のアイドルブームは持ち合わせていた。一歩間違えれば非常に危険な運動にすらなり得るためには社会全体が飲み込まれなければならない。
 この点で80年代のアイドル達は全てを引っ張りまわすだけの「力」を持ちえたが、90年代のアイドル達は何か常にアイドル的な「死」の予感、つまりはこのブームはすぐに終わるだろう、という冷めた感覚を大衆にイメージさせたという点で「力」が足りなかった。

 また、音楽性においても圧倒的に80年代のアイドル達の曲は優れていた。僕は近田春夫さんほど歌謡曲の批評をうまくは出来ないが、ただそれでも作曲者、並びに作詞家の技能はかなり高いものであり、その結果として世代が一つ異なる僕らの世代にまで「刷り込まれ」ているという状況を生み出すことに成功した。これに対して90年代のアイドルはたった一人の、二流の作詞作曲家によってのみ曲が作られるという悪環境にあり、当時売れた曲自体ももはや持続性を失っており、過去の遺物の様に(もしくはカラオケの冗談の様に)なっている。

 そして現在のアニソンである。現在のアニソンと80'sアイドル歌謡との接点を挙げよう。まず常に作詞家と作曲家が存在し、確実に歌い手と製作者は分離している、という点。これは歌謡曲にとっては前提に近い。次に、曲をアナライズした場合、その曲の構成はしっかりとした多様なる音楽的背景を持ち合わせていることが分かる。つまりは作曲家が自分のバックグラウンドからハイブリッドな現代性を持った音楽を作ることに専心しているということ。第三に作詞家の「仕掛け」が巧みであること。最後に常に視覚と聴覚(場合によっては聴衆の身体運動すら)を伴うというマルチメディア的性格を持っているということ。

 そしてアニソンのポスト・ミュージック性は80'sアイドルソングとの接点にさらなる現代性と過激さを足すことによって表れる。一つ目に挙げた製作者と歌い手の分離に関しては変わりは無いが、二つ目の接点以降かなりの変化がある。ここは一つ例を持ち出してそれを参照しながら考察していくことにする。まあそもそもこれを書こうと思ったきっかけでもあるのだが、つい最近オリコンランキング初登場2位を飾った『らき☆すた』の主題歌である『もってけ!セーラー服』を挙げることにする。まあ『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンディングテーマでも良いのだが、アクチュアリティが強いほうでこっちを選ぶ。

 曲のアナライズから始めることにしよう。80'sアイドル歌謡はバックグラウンドには、ABBAやカーペンターズと言った所謂『良心的なポップミュージック』とニューウェーブのポップサイドにおける『快楽系ダンスミュージック』、そしてそれに日本の伝統性を持ちつつ変化を続けた『歌謡曲』があると大まかに言ってみてもいいだろう。
 アニソンの曲構成は単純にこれのモダナイズであると言える。そして80年代から20年近く経った状態における、音楽的データベースの爆発的拡大によって引用が多彩になったことが曲そのものの変化を起こした。『もってけ!セーラー服』を構成する音楽要素は、ファンクの情動性と、DJ文化以降のカットアップによる高速/連続ループ性、ラップの台頭を皮肉に引用した早口言葉ラップとでも言おうか、まあ声優という職業性を最大限に利用した声優ラップ(とでも言っておこう)、レイブ以降の快楽追求式ダンスミュージック、そして曲名からでも分かるように、80'sアイドルソングそのものの引用。こういった感じでかなりの多元性を持ち合わせている、という点でもアイドル歌謡のただ流用ではないことは分かる。

 次に作詞家の「仕掛け」である。80'sアイドル歌謡にしろ、アニソンにしろ、聴衆が歌詞の深読みをすることを前提としている。これはフランス・ギャルの歌に、曲の提供者であるセルジュ・ゲンズブールが歌詞の中に「フェラチオをすること」を想定させる意味合いを持つ文章を挿入したことが有名であるように、アイドルソングにこういった意味深な「仕掛け」を用いることはフレンチ・ポップから続く伝統であるとも言っていい。
 しかしアニソンはその「仕掛け」の量が異常に多いのである。そしてまた深読みの可能性自体がかなり多彩であり、もはや歌詞は歌詞の内部ではなく、むしろ外部でリアリズムを持つというレベルにまで至る。これは東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生−動物化するポストモダン2−』で提示した、『環境学的読解』を誘発するものである。このことは『もってけ!セーラー服』もしくは『ハレハレユカイ』(ハルヒのエンディングテーマ)の作詞家である畑亜紀においてあまりに顕著であり、もはや聴衆のの人数分だけその歌詞が持つ意味があると言ってもいいぐらいだ。また、『もってけ〜』は曲のアナライズ部で挙げたように超高速の早口で歌われる(?)ため、CD発売まで歌詞の「聞き取り」そのものに多様性があり、しかも正解が存在しなかった。この「仕掛け」の感覚は80年代を遥かに凌駕し、過激であり、跳躍とさえ言える。

 次にマルチメディアという観点において。アイドルソングにしろ、アニソンにしろ、基本的に両者は最初にテレビ画面を通して聴衆に提供される。つまり先行的にアイドルが振りつきで歌っている姿やアニメのオープニング(もしくはエンディング)映像と同時に曲を聴くことになる。この結果、例え曲単体で流れても脳裏には焼きついた映像が存在し、反射的に曲と同時に映像が喚起されることになる。これは他種の音楽におけるプロモーション・ヴィデオとは形態が異なり、一種独特でさえある。映像が常に存在する音楽という点ではサウンドトラックに近いが、映像と音楽が完全にフラットな状態であるという関係性(つまり強い相互依存状態)のアニソンやアイドルソングと異なり、サントラの場合、映像と音楽は分離可能である(まあ、たまに映像が圧倒的に優位な立場にあるサントラもあるが、それはサントラとしては出来が悪かった、というだけである)。
 ここにおいてのアニソンの新奇性について言えば、曲の喚起する映像おいてに聴衆が熱情する方向が、アニメの場合二つ存在するということである。ここで「キャラ」という概念が登場するのだが、これついての説明をすると長くなるので割愛する。要はアニメの登場人物という「キャラ」と、それを歌う歌い手という「キャラ」という存在の二方向を意味するのだが、特にこの傾向は声優が主題歌を歌っている場合において強くなる。アニソンの愛好家、平たく言うと「アニメオタク」は、声優もまた一つの「キャラ」である、という考えをもつ傾向が強い。アイドルは常に一人であるが(つまり一つの歌が喚起する存在は一つの次元に集約するが)、アニソンは二つ以上のレベルにまで広がる。分かりにくいから「萌え」で言い直そう。つまりアイドルソングにおいては「アイドル」という一人の存在にしか「萌え」ないが、アニソンはアニメの「キャラ」と声優という「キャラ」の二方向に「萌え」ることができるのだ。この点がマルチメディア観点のアニソンの革新である。

 そして最後にやはり、社会性について再度少し触れておく。90年代はアイドルに対する熱情は結果として冷めていた、と前部に書いた。つまり終わりの確信が前提にあるアイドル性は結局「力」に欠ける。つまり補完されないのだ。80年代のアイドルブームと同レベルの爆発力とスキャンダリズムという「力」の構造を持ち合わせなければ結局はポピュラーソングとして、ないし「アイドル歌謡曲」としては確立し得ない。そしてそれに近いものがこの「オタクブーム」ないし「アニメブーム」にはあるのではないか、80年代とは違う形で萌芽しているのではないか、と感じるのだ。状況にも類似性を感じる。評論家の乱立や思想系のインテリが介入しているという状況なんかはそうだ。確かにまだ80'アイドルブームに比べればマイナーな世界かも知れない。が、とにかくこの時点で「終わり」を確信する要素は今のところ見当たらない。ポスト・アイドル歌謡の可能性はまだ燃え始めたばかりであることのみが確かだ。

 ブログにアホみたいに長い文章を書いた。さすがに疲労が凄い。が、考えていることの何割書けたのだろう程度だ。やはりボチボチ書き残していくことが結局必要だなぁ、と思い知らされる。

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空中散歩(的漫画)批評宣言

 一時期、物凄い勢いで多種多様なマンガを読み漁っていた時期があり(約一年間くらい?)、そのときに読んでいた主なマンガが俗に言う「オルタナ系コミック」というやつだった。アヴァンギャルドな手法をマンガに持ち込んだり、性に対してストイックに言及したり、リアリズムに強く寄り添ったりするマンガ、とでも言えばいいんだろか。とにかくある一定期間ひたすら読み漁ろうとしていた。しかしそれもパタリと関心が止み、というか自分の中で一定のマンガの基準みたいなものができ、それ以外はとにかくいいや、となったのだ。多分、古本屋に勤めだしたのも原因の一つ。とにかく僕が読みべきマンガは、「徹底した娯楽性、空想性」と「記号的エロス」と「萌えという現代快楽」と「批評性」の4点で読むものを絞り込んだ。こうなるともう読まないや、というマンガはいらなくなって一時期少し溢れ気味になっていたマンガは売ることができたし、マンガで迷うこともほとんど無くなった。

 その中で迷わず売ったものの大部分は、ストイックに現実への抵抗を明示的にせよ暗示的にせよ表明したものだった。だから僕は岡崎京子は迷わず全部売ったし、魚喃キリコも一つ残らず売っ払った。 確かに岡崎の『ヘルター・スケルター』はなかなか良くできた作品だったし、魚喃キリコの『blue』は非常に美しい作品だったと思う(実際『blue』に関しては少し買い直しを考えている)。しかし丸尾末広なんかはやはり僕には必要の無いマンガなわけで。それでも圧倒的にどこにも属さないマンガは売れなかった。まあそれだけ衝撃的だった、と言うのもあるが、例えば高野文子だ。どこに居ても常に足が地に着いていない感じで、そして絶対的。とてもじゃないが売る気になれなかった。

 で、ここ最近、彼女に近い立場(表現、とかではなく居場所の問題)の人を知った。中野シズカという人だ。『刺青』という作品。アックスあたりで書いている人で、根本的に僕はアックス、並びにガロ系の人はあまり肌が合わない。が、この人は明らかに違う、というか仕方なくそこに居る感じが物凄くする。やってることは違うものの、近似性を感じるという点で高浜寛なんかを連想する。とにかく徹底しているという点に非常に惹かれるのだ。トーンの使い方に関してはもはや「やり過ぎ」である。そして至るところに香る退廃的なエロス。そして透徹された美的感覚。マンガに興奮を覚えてしまうあの感じは久しい。安価な快楽とは一味違う、マンガにおける快楽が匂いたつ作品だった。

 そういえばマンガでよく出来ているなあ、と感心した作品がもう一つあった。ひぐちアサの『ヤサシイワタシ』。取り上げた題材はあまりに重く、心臓を抉り取るような感覚をもたらす作品ではあるが、ただのここんとこ流行っている『鬱マンガ』とは異なり、主題が非常にしっかりとしている。ここで取り扱っているのは依存状態における責任回避の問題。共依存という状態における責任体系の断絶と消失を主に取り上げている。これはもう少し違う言い方で角田光代の唯一の児童小説とも言える『キッドナップ・ツアー』なんかでも言われるんだが、要は子供の責任は何もかもが親(他者)の責任、というような形の連帯体系が無自覚的に我々の中に潜んでしまっている、という問題だ。確かに僕らは常に外部からの影響によってのみ何らかの行動に移っていると言えるのだが、しかしそれで言い切ってしまえば『個人の自由』の観念なんかはどこかへ吹き飛んでしまう。そういった「麻痺状態を刺激する」という意味でかなり良く出来たマンガだったのではないか、と思うわけだ。ひぐちアサのもう一つの短編で『家族のそれから』というやつもおそらく主題は近い。が、明示的に主題を打ち出した、という点(つまり多少の危険を冒してまで表現したという点)でこちらを評価したい。

 本当に梅雨は身体がだれる。しかし、雨音をバックに流れる大島保克の沖縄民謡は凄く心地良い。音と音の隙間が大きい分、その周辺部の音の介入は最初から容認され、むしろそれを含めての一曲という理念は非常に素晴らしいと感じる。そしてこの歌と演奏の身体性の高さがまた、たまらないのだ。

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filament批評宣言

 先日、と言えども6/30とまあ結構前の話なのだが、filamentのコンサートを法然院まで観に行った。で、個人的な感想としてはひどいものだった。sachiko Mのサインウェーブが断続的に鳴り続けて、それに大友の(おそらく)サンプリング音が合間合間に入ってくる、それが約60分程度続いた。こういうのを前衛って言うんですよ、と言いたいミニマル狂、もしくは現代音楽狂の方々にはもしかすると素晴らしいコンセールだったのかも知れない。ちなみにここで「狂」という言葉の表すところは、「他者を鏡像にすることでしか自己が確立できない(と思い込んでしまっている)」という状態においての音楽に対する(と、言うよりかはその音楽を演奏している人間に対する)強烈な依存状態のこと。

 しかし僕の観点から言えばあれは所詮ジョン・ケージの『4:33』の醜い亜流でしかない。ケージの『4:33』は、レコードにただ無音を刻むこと、そしてそれを聴こうと集中する聴衆(そしてこの状況にある聴衆はかなり自分の聴覚に対して過敏な状態にある)に対して、逆にその聴衆の周辺の微細な物音や環境音を聴かせる、という音楽を聴くことのコペルニクス的転回を狙ったものである。これが本当に実践される「場」とは聴衆がこの『4:33』に対して無知であること(つまりこれは「無音の音」で構成されている、ということを知らないこと)が重要である、と思われる。まあだからかなり広くこの「4:33」についての知識が広まってしまった現在では、これを「聴く」こと自体はあまり効果的ではないことも重要だと思う。つまり現在においての要点はこの「作品そのもの」ではなく「理念」であるということを忘れてはならない。

 話をfilamentに戻そう。filamentの問題点の一つはこのケージの理念を我々に押し付けようとする態度である。filamentは強制的に我々に対して周りの音を聴け、と要求する。こんなに厚かましいことは無い。またそのために「法然院」という寺社に「閉じ込め」てその雰囲気に呑ませようとする。「場の装置化」は決して悪しき手段ではないが、それが何かしらの「自然さ」を持っていないのならば、それを認めるわけにはいかないのだ。

 もう一つの問題点であり、これは音楽において根源的に許されない点でもあるのだが、彼らの演奏(ここではこれ以外に言い方が見つからない。確かに「運動」と言い換えることもできるのかも知れないが、実際のところ彼らにとってそれほど積極的な理念が存在するのかどうかは疑わしい)が非常に退屈であるということだ。ケージは4分33秒間だけ我々に周辺の音に耳を傾ける時空間を提供した。しかしこれが我々の集中力と無音に対する忍耐の限界時間であったとは考えられないだろうか?僕は生理学的な知識はさらさら持ち合わせていないので、全く確証が存在しないのだが、ここではそうだと仮定してみよう。そうすると60分もの集中状態を強制するfilamentの音は苦痛以外の何者でもない。退屈とは苦痛でしかない、というのがここではまさに実践されている。

 ONJQ(E、もしくはO)におけるサインウェーブの効果は確かに絶大だったと思う。あれはサインウェーブによって聴衆の聴覚は拡張され、他のインストゥルメンタルの音がより強烈に耳を刺激するという素晴らしき聴取の補助効果を持っていた。しかし、僕個人としてはあくまでも「サインウェーブは補助的であるべき」だと考えている。これはsachiko Mの試みを強烈に否定するものであるが、サインウェーブ単体での可能性は初めから閉じていた、と言わざるを得ない。今回の法然院での演奏で、僕は強くそれを確信したのだ。

 他にもfilamentに対する批評として「身体性」の問題や、西洋音楽への強過ぎる(そして行き過ぎた)憧憬の問題なども取り上げることができるが、それらに関してはちょっとしたディスクールが書けてしまいそうな壮大さなので割愛する。ただ大友良英に可能性を感じる一音楽バカとして、彼に失望はしたくない。確かにこれはひどく哀願的であるが、常に混迷の中に立たされている音楽の核に迫れる手段の一つを提供できるはずであろう演奏家として、僕は(彼に対する)この希望を捨てるわけにはいかないのだ。


 更新がひどく遅くなった最大の理由として、先日に行ったカントの『永遠平和のために』の要約作業がかなり手間取った、ということが挙げられる。あまりに素晴らしい著作ゆえ、どこをどう要約すれば他のゼミ生にカントの平和思想の一部でも伝えられるのか、それにかなり苦労した。まあ発表は無事終わったし、政治思想のゼミでの夏の全員課題が、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」になったというかなり奇抜な展開が行われたこともまた面白かった。とにかく『永遠平和のために』は現在においてもあまりにアクチュアルな政治思想であり、これは興奮しながら読まざるを得ない一冊なので、これについてもそのうち何かここに書こう。理解できているかどうかは正直自信が無いが。

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