冗談と義理のつもりで参加した政治学基礎勉強会という大学院生主催の勉強会で発表(要約と議論の論点を提示)をさせられ、僕の担当部門が国際政治とトランスナショナル化する世界、みたいな内容で、専門分野では無いもののネグリ風帝国論を振り回しながら議論に切り込んでいくという不必要な雄姿を見せた後、大学近くの中華料理屋でこじんまりとした飲み会に参加した。こじんまりとしているだけに飲み会は早々10時で解散となり、みなみ会館で11時からレイトショーでやる『スクリーミング・マスターピース』に自転車で行けば間に合いそうだったのでほろ酔い気分で観にいくことにした。
ちなみに飲み会が行われた「ニュー北京」という店は中華料理屋としてはなかなかの悲惨具合であった(そもそも店名が悲惨)。チャーハンは水分をたっぷり含んだベチャベチャしたものであったし(もちろん味も良くない)、鳥のから揚げは油が悪いせいだろうがひどい香りがした(それはあたかもマクドナルドのナゲットを彷彿とさせる)。餃子とシュウマイは冷凍ものじゃねえの?と疑いたくなるような何の変哲も無い味だし、餃子のタレはスーパーで売っているものをそのままパッケージごと出すという荒業だった。この店を選んだ院生たちは貧乏故に舌が腐ってしまったのだろうか、と何だか心配してしまいたくなるような店であった。
で、映画である。『スクリーミング・マスターピース』ね。内容はアイスランドの音楽ドキュメンタリーということで、トルコに続き結構期待していた。が、内容は正直良くなかった。映画全体の運びも鈍重なイメージを与える退屈な感じだったし、何よりもその核となる音楽が退屈極まりない。(多角的な意味で)面白い音楽の発見なんて一つも無いし、出てきたアーティストの良かった順を付けるならば、有名さの順にそのまま対応するという意味の無さ。つまりは一番ビョークが良くて、その次はムーム、といった感じ。オルガン奏者を4人並べて面白い音楽を作るというコンセプトで作られたバンドは、ただのクラフトワークの焼き直しに過ぎない代物であったのは笑えたが。それはあまりにも予想が容易だし、そこにドラムを加えればYMOという感じで、アイスランドは音楽の流れが20年ほど遅いのでは、と勘繰るほど馬鹿馬鹿しい。
これを観て二つ、この国の音楽的な欠陥みたいなものも見えた。それは彼らが民族的な(あるいは土地的な)記憶や物語、つまりは国民的アイデンティティに縛られ過ぎているということである。そしてそれが大きく露呈するのが演奏の仕方や多用するコードのパターンである。(演奏者)本人達は口に出したりして明示的な意志を示さなくとも、音の感じがどことなく「冷たく」、「ドライ」なものばかりなのである。そしてそこにある一定の「温かみ」のようなものを加味しようとする。これも共通している。ムームなんかを聴けばよく分かるのだが(ちなみに僕はムームをそれなりに評価している)、彼らの音の背景にあるようなものを他の演奏者も必ずと言っていいほど引用する。それによって個々の差異が相対化されてしまっているのだ。
そしてもう一つの問題。そもそも上記の問題のみならば音楽的にクリティカルな欠陥とはならない(ブラジリアン・ミュージックの流れ(あくまで良い方の)を見るとそれは明確)。その上記の問題を悪性の癌へと変える巨大な要因(問題)は西洋音楽、というか限定してアメリカとイギリスの音楽への憧憬が強すぎるという点である。この巨大要因がアイスランドの音楽を腐敗させていることが、あくまでも映像を通してだが、明確であった(例としてシガー・ロスの退屈さ)。この巨大な落とし穴があることに気付かないものかなぁ、と思いながらも、日本の現状に目を向けてみると仕方が無いとも思える(例えば未だに向井秀徳やくるりが幅を利かしているという現状)。
そんな中でもビョークはちょっとすごい。彼女は前進を、模索を続けている。彼女は音楽を通して、必死に彼女の記憶/物語、つまりは「出来事」、アイデンティティの問題を「他者」と分有、共有しようとしているように見える(この辺の話は岡真理の『記憶/物語』から影響を受けている)。ひどく難しいことだし、可能かどうかは分からないが、彼女のその姿勢には感銘を受けた。あとムームのボーカルのお姉ちゃんは可愛かった。
話は変わって今、秋のディスクール用のとんがった現代思想の本の合間合間にユリイカの『大友良英特集』を読んでいる。基本的に面白い内容なんだが、何やかんやで菊池成孔とのグルメ対談が一番面白いような気もする。菊池は相変わらずのいい加減振りだけど(おかげで笑えるんだが)、この二人の会話は非常にリラックスしているし、だからこそ重要なこともテクスト間に入り込んでくる。超要約してしまえば、「上手いものを食べろ、音楽と食事は重要な相関関係にある、だからこそ(いやむしろそもそも)グルメであれ」こんな感じだろうか。しかしこれほどの真実も無い。とにかく食える環境にあるんだから(これは様々な批判的な読み替えがされ得る言い方だけど)、その中から美味いものを丁寧に吟味し、選択して食べるべきだと僕も思う。どっかの田舎の間抜けのようにファミレスやファーストフード、総称すればジャンクフードをむしゃむしゃ頬張りながら身の無い話をして時間の浪費をするのにいったい何の価値があるんだろうか?
テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記
今日はレコード屋に行った。ただそれだけのつもりだった。街は人で溢れていた。しかし、盆休みがまだ終わってないから、というのが理由だと思っていた。六曜社で一息付いて、外に出ると町は人でさらに溢れかえっていた。原因がさっぱり分からない。河原町は夜に近づけば近づくほど人でごった返す街ではない。とりあえず、最後にワークショップに寄るつもりだったので、木屋町の方へ行く。外は人が多いというのに店内には人がさっぱりで不思議な感じがする。おかげでナエムラさん(漢字が分からん)に音楽講義みたいなのをしてもらったりで得はしたが。1時間ちょっとをワークショップで過ごしダブのレコードを二枚購入し、ローランド・カークの『rip rig&panic』を取り置きにしてもらい、店を出ると人はさらに増えている。そして大衆は一路北へと向かっていく。そう、僕の帰り道と同じ方向へ。
この季節に大きな祭事があることを僕は完全に忘れていた。祭事といえば『夏の下鴨納涼古本まつり』くらいなものだろうと思っていたが、それは大きな間違いだった。そもそも古本まつりは大きな祭事では無いし。まあその古本まつりで暑さと古本酔い(森見作品から引用)でフラフラになりながら、二日目と今日で1万円強散財したのだが。
話を戻して、その大きな祭事とは?『大文字』である。それが見事に今日だったのだ。どうりで人がうようよしているわけだ。狂熱するモブに巻き込まれ、自転車に乗ったり、降りて押したりしながら自分の家のある北へと向かう。が、北へ向かうほど人は増える。丸田町あたりで群集の第一ピークにぶつかる。一切自転車には乗れない状況となり、仕方なく押して歩く。
そこでちょうど『大文字』の見える位置を通りがかった。ついでに僕もそれを見る。しかしそれはひどく退屈な代物だった。ただ遠くで燃え盛る火、もしくは偶然的によく出来た山火事。僕は火に興奮する原始人、もしくは衣服を着たサル(栗本慎一郎風、古いな)でもないので、それを見て何か感じることは出来ない。むしろこれを見て彼ら、つまりは僕のまわりでカメラ付き携帯を片手に発奮してその山火事を眺める人々は何を感じているのか。
火を通してそこに「死」を見出したのか。確かに火は死を象徴する存在かもしれない。そして死の観念は僕らに何らかのエクスタシーを引き起こす。死に接近すればするほど、僕らはある形で興奮し、熱狂する。エロスの、蕩尽の宇宙。しかしその死を象徴する「火」は、ここからではあまりに遠く、死を感じとることは出来ない。まさに字義通り「対岸の火事」に過ぎないからだ。
しかし、若い男達は確実に興奮していた。火を通してエロスに興奮していた。それは横に恋人、もしくは何らかの理由で女の子を連れている男達に限るが。それは決して「死の観念」に興奮しているのではない。残念ながらもっと低俗(?)な対象に興奮している。カーニバルの後の性行為に思いを馳せている。一連の儀礼的な行為、つまりは人波に巻き込まれながら、退屈な火を見るという行為のあとにあらかじめ決められていたかのように成立するはずのセックス(そしてそれは甘い夢想に終わりかねない、何故ならパートナーの同意が必要な場合があるからだ)に彼らは興奮してしまうのだ。まさに別儀での衣服を着た「サル」である。そんなものを同姓である僕が見ても何も面白くは無く(ある意味面白いとも言えるが)、うんざりするばかりだ。
人ごみの第二ピークは出町柳駅から今出川通りの周辺で迎えられる。交通規制が行われ、自転車は押さねばならず、自動車及び自動二輪車は通行すら許されない。通行人たちの喧騒と屋台(何故かファミリーマートが屋台化していた)の客呼びと警察の拡声器を使った警告が織り成す暴力的なノイズのポリフォニーで僕の居住エリアは大変なことになっていた。まあさすがに家の周辺はマシだったが(とはいえ少し出た川端通りは普段では考えられない通行量)、結局家に着くまでに街から1時間くらいかかった。通常の二倍だ。
何だかそれで結構疲れてしまい、それが原因か、もしくはカーニバルの熱狂に当てられてか、そもそも普段どおりなのかは分からないが、ビールが異常に飲みたくなり、晩御飯として作ったカルボナーラとビールを飲んでやっと落ち着き、これを今書いている、という感じだ。
しかしまあ日本人、もしくはそれ以外の国の人間もそうなのかもしれないが、本当に「火」が好きだなぁ、と感じる。大文字にしろ、花火にしろ、キャンプファイアーにしろ、彼らは火に熱狂的過ぎる。子供が火を見て喜ぶのは、そこに愛らしさや無邪気さが肯定的に取れるので一向に構わないが(逆に喜ばない子供も可愛い)、大人が火を見て騒ぐのは不気味ですらある。何だか日常で押さえ込まれている暴力衝動を火に代替置換して欲望を吐き出しているようにも見えるからだ。例えば大きな音と巨大な火花を散らす花火を見てワイワイ騒ぐ、それは戦争、身の安全が保障された戦争に興奮している人間とさして変わらない気がする。そう考えるとやはりウンザリしてしまう。
テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記
二泊三日で家族と毎年恒例のキャンプに行き、その前日にはゼミでの飲み会があった。僕はその四日ほど間、ひたすらビールを飲み続けていた。朝、昼、夕問わずビールを片手に生活していたように思える。こんな生活を送ってみても、ちっとも自分に対して自制しなければ、という観念が出てこなかったあたり、父方の祖父から受け継いでいる可能性があるであろうアルカホリック(アル中)の素質が何となく見え隠れしているような気もする。
ゼミの飲み会がある日、僕は前日が夜通しで仕事をしたため(理由は色々だが)目が覚めたのは午後5時だった。飲み会は6時半集合だったのでまだ余裕はあった。起きた瞬間ひどい喉の渇きを感じたため、冷蔵庫からほぼ無意識的にビールを取り出して一気に喉を通した。朝起きて、その次のアクションがビールを飲むという行為。ここから僕の「アルカホリック四日間」が始まる。家を出る用意をして飲み会の集合時間までまだ時間があったため、三条のジュンク堂へ。弟(次男)に読みやすい小説をいくらか買ってきてくれと頼まれていたので、その買い物をする。読みやすい、という点で今回は徹底して現代小説、しかもある程度現在話題になっているという中で選抜して五冊ほど買う。まあ個人的に読んでみたいというのがその選択の中心の一つでもあるが。
その後、ゼミの飲み会があり、10時半くらいには解散となり、僕は家路に着く。が、そのまま寝られるはずも無く(5時起きで7時間後の12時になられるはずが無い)、弟のために買ってきた小説を暇なので読む。寝ずにそのまま始発に乗って実家に帰り、その流れでキャンプに行こうと考えたからだ。滝本竜彦の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』と古川日出男の『2002年のスロウ・ボート』を読み終えたあたりでいい時間になったため、用意をして出掛ける。そろそろ酒も抜ける。
滝本の『ネガティブ〜』はライトノベルとノベルの中間地点という感じで、「妄想状況(引きこもり態勢)からの脱却」というテーマをファンタジーに代替置換した、という印象(意識的か無意識的にかは分からないが)。インターネット以降のブログの感覚が改行の異様な多さからも読み取れる。古川日出男の『2002年の〜』は村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』のリミックスという中高ハルキストだった僕(既出)にとってはかなり興味を惹かれる題材であったが、読んでみた感想としては完全に「古川日出男の小説」という感じで、全体の構成以外は完全に彼の手法で書かれたものであった。というかこの作家自体に村上春樹の影響がかなり見られるので、それがより顕著になった、という感じだろうか。こちらもテーマは脱出。ノマドというか脱構築というか、ポストモダンな一品。
で、電車の中で舞城王太郎の『スクールアタック・シンドローム』を読みながらウトウトしつつ、気が付いたら西神中央。で、8時ぐらいに家に着いてみたものの、出るのは昼過ぎだということで仮眠をとる。12時半くらいには出発して、キャンプ場に着いたのは午後四時頃だった。
着いてまずタープを張り、テントを建てる。それでとりあえず生活環境は確保できたので次にすぐ晩御飯の準備。一日目はバーベキュー。米を炊くのは僕の仕事なため、薪で火を起こして米をグツグツやる。で、火を見ながらビールを飲む。人は未だに原始的な部分を大量に残しているらしく、火を見ると何だか楽しくなってくる。で、その状況でアルコールを摂取する。幸福感が押し寄せる。米が炊けたらバーベキューの開始である。同じ焼肉でも外で食べると妙に美味い。空気が澄んでいるというのが恐らく大きい。米も炊飯器ほど完璧には炊けないのだが、味は格別になる。そしてビール。ああ、これほど優雅な時間の過ごし方も無い、と悦に入る。
夕食後、コーヒーを飲んで、適当に時間を過ごし、10時半くらいには寝る。キャンプに来るといつも生活が規則正しくなる。これもまわりの環境に僕の体内時計が合うように調節されてのことなのだろうか。寝る前に空を見れば星が異様に近い。圧倒的である。
そして眠るときに目を瞑れば、まわりの音に対して耳がひどく敏感になる。そこには完全なる環境音によるミニマル・ミュージックが展開されている。川の流れる音が大きな基底音となり、その上を虫の鳴き声が一定のピッチと長さで反復され、それが重なり合いながら音全体が増幅していく。これこそまさにミニマル・アンビエント。そしてそれはひどく心地良いのだ。
こういった環境の元にいる分、なにかと思考の方向がマテリアリズムから自然とオカルティズムやアニミズムの方向へと変換していくものだ。アヴァンギャルドや前衛といった運動も、根本的には自然回帰的なものなのではないか。インプロヴィゼーションはまさに身体への徹底した言及と追求だ。ケージの『4:33』だって聴覚をより自然に向けようとしたものだし。それを考えればやはりfilamentは本末転倒だ。自然の音に耳を向けようとしているところにマテリアルな、硬質な音に無理矢理耳を向けさせようとしている。そんなことを考えながら眠る。
ちなみに夏の下鴨神社の中を通り抜けるときも同じような現象に出会う。鬱蒼とした木々の間から爆発的に鳴らされる蝉の鳴き声の反復と重複はミニマルそのもの。「蝉の鳴き声」という装置を決起に、そこから引っ張り出される過去の記憶があまりに膨大過ぎて頭の中でコラージュと化し、それに恍惚となりながら自転車を漕ぐのはかなり気持ち良い。
二日目、三日目とも同様に、朝食を食べた後ビールを飲む、川に少し泳ぎに行ってすっきりした後ビールを飲む、火を起こしながらビールを飲む、夕食を食べながらビールを飲む、といった具合に本当に快楽的な生活を送った。
キャンプ用には中編と短編に絞って小説を持ってきていて、ポール・オースターの『幽霊たち』、シャミッソーの『影をなくした男』、池澤夏樹の『骨は珊瑚、眼は真珠』を三日間でのんびりと読んだ。オースターは初めて読んだのだが、簡潔な文体に見事なストーリー・テリング、虚無感を常に漂わせながら、自己と他者の問題に切り込みつつなお且つ面白い。短いながらも読ませるなあと思う。『影をなくした男』はゲーテの『ファウスト』を彷彿とさせる寓話。ただ『ファウスト』のように超壮大というわけでもなく、またかなりあっさり読めてしまう。訳が池内紀でブックオフで105円だったので、知らない作品だけれど買ってみようという感じで買ったのだが、結構有名な寓話らしい。『骨は珊瑚〜』は短編集なんだが、最後の『眠る人々』という話でそこまでのすべての短編が集約されているということに驚き、あたかも長編を読んだかのような読後感だった。『スティル・ライフ』以来この人の本は読んだこと無かったんだが、これは面白かった(というか『スティル・ライフ』がいまいちだった)。
で、キャンプも終わり、最後に実家で晩酌してそれからはまだ酒を飲んでいない。といってもまだ一日しか経っていないけど。しかし酒は飲んでいないのに、京都に帰ってきたその日からいきなり生活が崩壊の兆しを見せ始めた。こう、だらけて生活していてはやはり早寝早起きは実行不可らしい。というかバイトの時間上、早寝はそもそも不可能なんだが。
今日から下鴨神社で「夏の納涼古本市」をやっている。明日は仕事も無いので覗きに行こうと思う。
テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記