超表層的日常批評宣言

如何に卒業するかを語るわけではなく、如何に日常を生きるかを批評するわけでもなく、そもそもタイトルに意味が付されていない

現代ポップス批評宣言

 少し前に神戸のリズムボックス元町店でお得意様だけに対する全品20%オフセールがあった。いわゆる会員特典というやつか(まあ正確には会員ではないが)。そのときに前々から「安い」という点で気になっていた戸川純ユニットの「極東慰安唱歌」のレコードを、その定価よりもさらに安くなる、ということで買った。ものすごく戸川純が好きだ、ということも無かったので、何となく買ってみたという感じだったのだが、これが物凄かった。聴いたあとは興奮のあまりじっとしていられなくて、自転車に乗り、意味も無くバイト先に向かってみたものの、行く途中で「バイト先に行ってみたところで、そこにこの興奮を伝える相手なんていないだろ」ということに気付き、ただまあそこまで来たんだから、ということで少しだけ働いてみた、というわけのわからんことまでしてしまった。

 ところで戸川純ユニットの何がそんなに凄かったのか。それは彼女らの音楽がポップスの複雑さを物語っていたからだ。そしてまた、その「ポップス」という音楽が持つ「自由さ」までも謳歌していたということがひどく衝撃的だった。

 ポップスはそもそも単純な音楽ではない。当たり前な話だが最近のポップスはその辺が少しずれているようにも感じる。もう今や少し古い人になるのかも知れんけど、aiko(まだまだ現役だけど)なんかはまさにそう。単純さの底なし沼に自らハマって、ズブズブと沈みながらそのコピー&ペーストの痙攣状態に陥っているように見える。つまりは個人的には彼女の音楽はひどく悪質に聴こえる。むしろ言うなら悪意すら感じる。
 こういった感覚が今ポップスの現場では当然視されてしまって(麻痺してしまって)、同じ音楽をひたすら再生産していくという無限運動(実際には無限では無く、思い込み)を繰り返そうとしている。この状況を作ってしまった大きな原因の一つに、作曲家の問題、もしくはシンガーソングライターの問題が噴出してくる。

 そもそも曲を作る上で、もしくは音楽を演奏する上で、バックグランウンドの狭さというのは致命的だと考えるべきだ。この感覚がどうにも麻痺しつつある。これを知の否定(廃棄)運動だと言ってもいい。簡単に写真を例証して説明できる話だが、静止した対象(被写体)は常に背景からはみ出ることをできない。はみ出てしまえば対象はその写真の枠内から消え、像は消える。これを音楽に置き換えれば、対象は作曲された(パッケージングされた)音であり、背景はそのままその作曲者(もしくは演奏者)の音楽的(もしくはその他の知的)バックグラウンドである。つまり作られる音楽は常にその背景によって制限され、その必然によって同じ音楽の再生産が行われる。

 この「背景」からはみ出してなお且つその像を残すために、枠そのものを広げることが出来る存在も確かにいる。それはアマチュアという名のトリックスターである。彼らのみがその侵犯を許され、境界を越境できるが、それはあくまでもアマチュアと言うある特殊状態においてのみ可能である。しかし、現代のポップスの作曲家やシンガーソングライター達は悪い意味で中途半端にプロフェッショナルなのである。これによって彼らは自らの狭い枠組みの中で右往左往しながら、その移動範囲の狭さに気付かずに(再)生産活動を続ける。

 そしてその枠組みの狭さがそのまま「自由さ」を削り取ってしまう。「ポップス」と言うジャンルはひどく曖昧な感性で支配されている。確かに他ジャンル(例えばロックであり、ジャズであり、といったところ)もそもそもひどく曖昧であるが、ポップスはその曖昧さを遥かに超越する。実体がなさ過ぎる。いや、実体は大衆の中にある(ポピュラー・ミュージックと言うぐらいなのだから)。大衆ほど曖昧なものは無い(個の集団に統一性など存在するのか?)。そういった理由でポップスと並列に置かれるべきはアヴァンギャルドではないかと常々思うくらいだ。アヴァンギャルドも所在が無い。

 話を戻せば、その曖昧さゆえポップスという音楽的な枠組みは非常に広い。上記のとおり、枠組みの広さはアヴァンギャルドと肩を並べるだろう。その広さが音楽的な「自由さ」と比例する。つまりポップスはそもそも貪欲であり、雑食的であり、往々にしてハイブリッドで良いのである。それでもポップスなのだから。いや、むしろそうでは無いと面白く無い。至るところから引用や抜粋、つまりは様々な音楽の美味しいとこ取りをあらかじめ許されているのだ。これは非常に強力な権利でありこれを利用しない手は無いのである。
 しかし、ここでその権利を存分に行使するためには広い音楽的(もしくはその他の知的)バックグラウンドが必要になる。そもそも「無い」ものから「何か」を取り出すことなど不可能なのだから。狭い世界しか覗いたことの無い作曲家やシンガーソングライター、もしくは演奏家はここで音楽的に挫折する(本人は気付いていないかもしれないが)。そして戸川純ユニットは見事にその広い世界で優雅に泳ぎまわったのだ。

 戸川純ユニットの音楽的な要素を全て拾い上げてここに記すことは不可能だろう。あまりに広すぎるし、雑食過ぎる。そしてまた各要素の組み合わせによって変化が起こるため、掴み切ることなんてできない。例えばアフロ系のリズムアプローチに、戸川純の純日本製のロリータヴォイスが重なった時点で、僕のボキャブラリーに収まる範囲を超えてしまっている。何ともエロティックで、猥雑なのだが、ひどく純粋な美徳を持ち合わせている。そして何よりも「ポップ」なのだ。これが決して聴衆を突き放さない、聴衆を引き寄せようとする「力」である。僕はそこにポップスの魅力を感じずにはいられない。

 こういった展開を今一番、現在進行形で全く異なった枠組みにおいて行っているのが俗に言う「アニソン」なのではないか、と考えている。詳細は以前に書いたので控えるが、全く別の、だが同時にパラレルなレベルでハイブリッドなポップスを展開していると思う。そもそも「萌え」という感覚自体がひどく複雑且つ曖昧でハイブリッドではないか。
 また、戸川純ユニットと同じ地平でポップスを今やっている人を挙げるならば・・・国は変わるがフアナ・モリーナなんかはそうだと思う。あと厳密には同じ地平、というよりも、戸川純らの枠組みとアニソンの枠組みのちょうど中間地点で空中遊泳しながらやっているイメージがある、という意味で宇多田ヒカルを挙げたい。結構長い間僕は彼女のファンなのだが、何かそういうのも手伝って聴き続けている感じがする。
 それと、ソロ3作目において戸川純と同じ舞台に上がってこようとしているように感じた椎名林檎は、いつの間にやら再生産の側に落ち着いてしまったようだ。これは結構がっかりした記憶がある。ついこの間、たまたま「僕らの音楽」に出演しているのを目にしたが、東京事変の楽曲のひどさには驚いた。期待していた分だけに、失望も大きい。

 この前の日記で富樫さんについて書く、と書いたのにまだ「rings」を買ってないので書けなかった。これは最近怠惰になっているというわけではなく(何とも言い訳臭い)、今週末から東京に行ってディスクユニオン巡りをやってこようと考えているので、そこで富樫さんの「rings」も安めで見つかるかもなあ、という展望があるので、現在資材を温存しているというわけだ。そして全然関係無いが、ここ一週間ほど生活が完全に朝方になり、0時には眠くなり、7時か8時には目が覚めるという異様に健康的な生活を送れている。学校もそろそろ始まるのでこれを維持していきたい。そうこう書いているうちに眠くなってきた。

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スティーブ・レイシー批評宣言

 レイシーについて書く。どうにも一回では書き切れなさそうなテーマであり、あまりに僕の内部に侵食し過ぎている存在であるため、書くこと自体に躊躇いがある。というか何を書こうが本質には近づけない、というあまりにもネガティブに確信めいたところがある。それほど僕の中でのフリー・ジャズにおけるスティーブ・レイシーの立ち位置は突出している。ジャズ〜ファンクにおけるマイルスであり、インプロヴィゼーションにおけるデレクであり、ダブ及びベースにおけるジャー・ウォブルであり、ベースにおけるチャーリー・ヘイデンであり、そしてフリー・ジャズにおけるスティーブ・レイシーである。

 そもそもこれを書いてみようと思い立った理由の一つはRova Saxophone Quartetがレイシーを吹く、というコンセプトで作られた『Favorite Street』を聴いたことにある。半信半疑で買ったこの盤はかなりの度合いでキレまくっている。サックス4本でレイシーをプレイするというあまりに斬新且つレイシー愛に溢れたこの一枚は僕にとってちょっとした衝撃であった。例えどれだけ前衛的な編成であろうとも、レイシーはレイシーであったのだ。いや、違う、レイシーそのものが今現在においてもあまりに前衛的であるために、編成を変えたところでその前衛性は決して追い越されたりはしないのだ。彼ら(nova〜)はそれをあえて反証明するかのように、そしてその過激さと楽曲の力そのものに魅了されたままの熱情でこれを吹き込んだように思える。その点で僕は、この盤を非常に評価したい。一人のレイシー狂として。

 レイシーの余りある魅力の、そして僕が一番夢中になる点は、そのフリーさ、その対照に立つはずの理論的整然さが同時に、見事なコントラストを描きながら両立してしまうところにある。実際、そういった手法を取るフリー・ジャズプレイヤー、つまりは現代音楽とフリー・ジャズを折衝させてアドヴァンスド・フリー・ジャズ(the shape of free jazz to come)を作り出そうとするプレイヤーは多い。代表的なのは数式をジャズに導入したアンソニー・ブラクストンなんかが挙げられる。
 
 しかし、確かにブラクストンはフリー・ジャズの獰猛さの中に理論的整然さを導入し、あるレベルまでそれに成功しているかもしれない。しかし、彼の演奏はところどころにその二つの要素(フリーと理論)の齟齬が現れているように聴き取れてしまうところがある。つまりは、時々バランスを崩し、僕を虜にする前に何かが終わってしまう。これに対し、レイシーは決してバランスを崩さない。常に彼の演奏は、スマートである。どぎついフリー・ジャズというのは確かに聴いていて楽しいのだが、何枚も続けて聴いているとひどく疲れてしまうところがある。それはそこに、ある一定の「軽やかさ」が失われてしまっているからだ。例えばアート・アンサンブル・オブ・シカゴのドフリーな時代のやつなんかはまさにそうだ。物凄く刺激的で、激しく、猛々しく、カッコいいのだが、一枚でお腹一杯になってしまう、そういう感覚だ。ニューウェーブなんかに視点を移せばディス・ヒートはまさにその典型であるし、ポップ・グループの2ndもそう。

 だがレイシーは違う。彼の演奏は、かなりの度合いで激しく、アヴァンギャルドで、危険な香りがプンプンするのに、どこまでもスマートであり、軽やかなのだ。その軽やかな、どこにも留まらず、常に移動し続け、あらゆる障害を越境しつつも決してそれを押し付けてこない、浅田彰やドゥルーズ/ガタリの言葉を借りれば「スキゾフレニックな」その演奏に、僕はいつでも夢中になってしまう。変拍子の応酬であったり、不協和音のみで楽曲が構成されているにも関わらず、それは決して僕を疲れさせないし、「次」を常に欲求させるのだ。

 そういえば、レイシーはかなりの度合いでセロニアス・モンクに影響を受けたようだ。実際丸々モンクのカバーをやり切ったアルバムもソロとアンサンブルの両方で何枚か出している(ちなみに僕はソロの方は聴いたことが無い。レコードがそもそも希少である上に、普通は価格がバカ高いからだ)。上記のレイシーの演奏におけるスマートさも、モンクから流入が多大にあるように思う。モンクの演奏は常にどこかしらユニークで、だがひどく緊張感のある演奏をする。その対極的な二つのイメージが見事に混ざり合って、一種独特のモンクサウンドとでも言うような、他に比較のしようが無い演奏が生まれている。ソロ・ピアノ作である『セロニアス・ヒムセルフ』を聴くとそれがよく分かる。ソロだけに彼そのものが聴ける。
 そしてレイシーの演奏もモンクのそれに劣らず、ユニークな印象を常に与え続ける。彼の吹くサックスの音、あるいは曲全体のイメージが、ひどくストイックなのに、どこかおどけた感じを維持し続けてしまう。そして「軽やかさ」とは冗談めかした印象無しには成立しないイメージである。ここにレイシーの魅力の根源、つまりはモンクからの影響というのが読み取れる気がするのだ。

 菊池成孔が「マイルスを好きな人、もしくはゴダールが好きな人ってのは大体同じパターンを持っていて、とにかくマイルスなら『スター・ピープル』だろうが『アマンドラ』であろうが何でも好き、ゴダールなら彼の撮ったものなら何でも好き、という思考を持っている。これは結構共通した認識で、不思議なものだがこういった事実がある」というようなこと言っていたのだが、僕の場合はスティーブ・レイシーがこれに当たる(ちなみにマイルスも結構そうなのだが。どうしようもない後期作も愛して止まないところがある)。レイシーが吹いたものならとりあえず何でも聴きたい、欲しい、という欲求が常にフルスロットルで存在し、レコ屋で見つけたらとりあえず買う、もしくは真面目に検討する、という癖がついている。

 しかし実際のところ、僕の音楽に対する視点においてレイシーの影響というのはかなり大きい。リズムも、音の相互関係も、和音も、感覚も、そして軽やかさも、かなりの度合いでレイシーに負うところがある。それゆえどうも文章化というか、言語化というのがやたらと難しい。まあそもそも文章化、言語化が下手のところも大きいが。しかしこの日記で少しは書けたような気がしないことも無い。・・・どうなんだろうか。

 8月22日に富樫雅彦氏が亡くなった。僕が衝撃を受けた数少ないパーカッショニスト/ドラマーである。パーカッションに対する視点自体がその辺の演奏家とは遥かに異なる人だった。次の日記はブーツィーズで『rings』を買った暁に、富樫さんについて書こうと思う。

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水批評宣言

 父親と二人きりで電車に乗るという妙な機会が二日前にあった。30分間ほど父親と二人きりというのはここのところあまりなかったもので、母親という第三者を挟んで話すことはよくあるし、その状況下では僕も父親も良く喋るのだが、いざ二人きりになると大して話すことが無いことに気付く。そういうわけで最初の10分ほどはほとんど無言。苦痛ではないが少し退屈である。お互い何か話すことは無いかと思索して、何となく父親の最近の十八番となりつつある「水」の話になった。

 彼は水にうるさい。いや、食べ物、飲み物全体にうるさいのだが、ここ最近は水に凝っている。だいぶ前から水には凝るほうではあったが、近頃その熱がさらに上がったらしい。それで僕も最近良く水を買って飲むようになったので(要は僕も水にうるさくなってきた)、一応共通の話題の一つとして最近徐々に持ち上がるようになっていた。まあもともと飲み食いに関する話題は多いのだが。ちなみに以前二人きりで話をしたときの話題は、そのとき車のラジオで流れていたブーレーズが指揮する何かの現代音楽の話だった。珍しく音楽の話題で。

 僕が外で水を買うときは大体「クリスタル・ゲイザー(ガイザー?)」を飲む。喉に絡みつくような妙な癖が無いし、すっきりと飲める感じがあるから。エヴィアンあたりは何ともしつこい気がしてどうも飲めない。六甲の〜とかの日本の水は500mlは飲めない何かがある。ある意味コーラと共通している。で、僕の話は別にいい。父親の話である。
 彼は経済的な面、そして勿論、味覚的な点も考えて、つい最近amazonで浄水器を買ったらしい。その浄水器というのは、最近流行っているタイプの、所謂「Brita」タイプの、ポットに水を入れて、そこで浄水するタイプのやつだ。Britaは美味しいらしいというのをよく聞くので僕としても興味があったが、まさか実家の方で購入するとは思わなかった。Britaはドイツの会社のものだが、彼が買ったのはイタリア製のものらしい。

 Britaは確かに美味しいのだけれど、少し癖がある。軟水だが、味に硬さが残る、というのが彼の意見。大いにパラドックスを含んだ感想だけれど、味覚など感覚的な部分に関する意見はパラドックスを多少含もうとも大して問題は無いと思うので(というか往々にしてパラドックスは介入してくる)、ここはその意見を素直に聞き入れる。そういった理由で、それが無いイタリア製のものにしたらしい。そしてBritaなどで作った浄水は、市販の美味しい水と違ってミネラルを含んでいないところが重要らしい。
 彼は以前から家で作るお茶の味と市販のお茶の味が決定的に異なることに関心があったらしい。何でこうも違うのか、と(要は市販品の方が美味い)。で、行き着いた答えが「水が違うんじゃないか」と。市販品は恐らく純水に近い水で作っている分、茶葉の魅力をほとんど殺さず旨味を引き出せているのではないか、そう考えたらしい。そして家のお茶とかコーヒーも新しい浄水器で作った浄水で作れば美味しくなると。確かに、例えば紅茶は市販の美味しい水で作るより水道水で作ったほうが美味しく出来るというのは常識である。ミネラルが紅茶に含まれる何かの成分(何か、は忘れた)を殺してしまうため、紅茶の香りと味を落としてしまうからだ。ちなみにコーヒーも同じだ。こっち(京都)に引っ越してきた頃、何度か市販の水でコーヒーを淹れてみたのだが、結局水道水で作ったほうが美味しいというオチになった。つまり父親の言っていることに信憑性が無いことは無い。

 とりあえず、次に僕が帰るときには確実にその浄水器は来ているから楽しみにしているように、ということで別れた。本当にそれが美味しい場合、僕もそれの購入を考える、というか美味しければ確実に買うだろう。そんなわけで実家に帰ったときに楽しみが一つ増えた。

 カエターノ・ヴェローゾの『noites do norte』が素晴らし過ぎて圧倒される。ブラジルの魂とロックの邂逅とでも言おうか、彼のまだ終わらない音楽への意欲がありありと示されていて興奮してしまう。歌の力、つまり皮膚の下にまで染み渡るかのようなメロディと歌声に僕は耽溺してしまう。そして甘く、攻撃的ですらある(ここにもパラドックスは存在する)ギターの音色にブラジルの血脈と歴史、そしてその絶え間ない前進を感じずにはいられない。「閉じこもってしまったロック」はあまりに退屈だが、彼の音楽のように可能性に怖気づかないロックは何とアクチュアルなのだろうか。危険で、それ故に近づきたくなる底なしの魅力がある。

 そういえば嶽本野ばらが大麻所持で捕まったらしい。これによって人気とか落ちるのだろうか?個人的には大して評価していない人だけれど、まあ「乙女のカリスマ」とまで呼ばれるような人なので、どうなるか気になるといえば気になる。しかし、最初捕まったということを聞いたときは本当に少女に手を出しちゃったか、と思ってしまった。まあ彼の作品のせい(『ロリヰタ』)なのだが。

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