上記のタイトルのように、「オタク」と「サブカルチャー」という二つの文化的文脈(?)が存在する。なお、ここでの「オタク」の区分というのは「アニメオタク」という非常に閉じたの狭義の意味合いではなく、もう少し広い意味合いでの、所謂各ジャンルにおけるコレクター的存在者たち、及びその対象に対する妄信的愛情を捧げてしまう人たちを指す。つまり東浩紀や村上隆が文脈上指し示す「オタク」では無い、ということを先に述べておく。
で、この「オタク」と「サブカルチャー」は様々な場所で同一のものと見なされたり、また他方では徹底して隔絶された存在概念であるというような捉えられ方もされたりする(「ユリイカ」でも一度取り上げられている)。しかし僕個人の観点ではこのどちらもが正しく、どちらもが間違っている、と考えている。少し言い方が曖昧であるので、詳しく述べよう。僕は「消費」という視座からこれらを眺めることによって、この二つの差異は「程度」の問題において定義付けられるのではないかと思う。つまりこのどちらもが同じ文脈上に存在しているが、その差異は存在し、それは「程度」によって振り分けられうる、と。つまり各ジャンルにおいて、主体の消費形態が「オタク的消費」と「サブカルチャー的消費」の二つに分けられるのである。これは大塚英志や、その元ネタのJ・ボードリャールの社会学的消費論に非常に似ているような印象を与えるだろうが、実際そこから着想は得ている。しかし内容は非常にお粗末といえるのでその悪質な亜流といったところか。
「オタク的消費」と「サブカルチャー的消費」。この二つの差異は何か。「程度」である。では「程度」とは何か。個人がその対象に対して消費する様々な形態の資本の占有率である。その占有率の割合が高いか低いか、という問題である。ここでの「資本」とは資金などの明示的なものから、時間や感性などといった抽象的なものも含む(ブルデューっぽい?)。その個人資本を投資する割合の差異によって、その消費形態が「オタク的消費」か「サブカルチャー的消費」かに分かれるのである。
ここまでくればもう瞭然であろうが、その消費の割合が高いのが「オタク的消費」であり、低いのが「サブカルチャー的消費」である。この形態はあらゆる(文化的)ケースにはめ込むことが可能である。例えば、分かりやすい例を挙げれば「アニメ」である。アニメを「サブカルチャー的消費」する人間はアニメをテレビ、もしくはインターネット上で消費(鑑賞)するものの、そこで終わりである。一回観たことによって満足を得る。しかし、「オタク的消費」する人間はさらに画質、作画が向上しているDVDを買い、さらにそのアニメに原作があるならエロゲーにしろ、ラノベにしろコミックにしろ買って消費するのである。そこにおいて消費されているのモノは資金、時間に終わらず、感情やセックスまで消費される。つまりこの状況が他の対象に全て当てはめることが出来るはずだ。「音楽」、「レコード」、「文学」、「哲学」、「古書」、「マンガ」、「電車」、「生物」・・・こういった物に関っている人たちは全てこれら二つの消費形態のどちらかに当てはまる。
ちなみに僕自身は「音楽/レコード」を「オタク的消費」し、その他(文学にしろ、哲学にしろ、マンガにしろ)は全て「サブカルチャー的消費」である。この「サブカルチャー的消費」というは、自分が少し興味のあるところ浅く、少し広く手を付ける程度に終わるというもので、常にその対象に対して「趣味」であるという乖離的、客観的な立場をとるのだが、「オタク的消費」となるとある種の自他同一性のようなものを持ってしまい、その対象に対して「趣味」という観点が持てなくなる。こうなると「趣味は何か」という質問を与えられたときに「音楽以外の何か」を挙げることになり、そのときの一種の居心地の悪さは言葉では表しにくい。また、この場合に「趣味は音楽」と言ってしまったときも同様の居心地の悪さを感じる。
ちなみにこの消費形態は個人というレベルから離れて、店舗という位相にも対応する。つまり資本は資金だけではない、という点でこれが可能なのだ。例を挙げよう。京都の本屋に関していえば(新本を扱っているところに限る)、「ヴィレッジ・バンガード」、「ガケ書房」、「恵文社」は「サブカルチャー的消費」の本屋にあたり、「三月書房」は「オタク的消費」の本屋である。京都のレコード屋であれば「ビーバーレコード」や「ジェットセット」、「ハイツ」は「サブカルチャー的消費」のレコード屋であり、「ワークショップ」、「トラドラレコーズ」、あたりは「オタク的消費」のレコード屋である。神戸のレコード屋だと「リズムボックス」なんかが「サブカルチャー的消費」のレコ屋で、「ハックルベリー」、「ロックンロール・エイズ・プロダクション」、「汎芽舎」(個人的には「サブカル消費」にしたいのだが・・・)あたりが「オタク的消費」にあたるだろう。勿論、消費する側は「恵文社」で「オタク的消費」をすることも可能だし、「ワークショップ」で「サブカルチャー的消費」をすることも可能である。要は視点の変更を行なっただけのことだ。
世の中には「サブカルチャー的消費」のみをする人と「オタク的消費」と「サブカルチャー的消費」の両方、もしくは「オタク的消費」のみをする人がいる。そして前者が圧倒的多数であり、後者は大いに少数派である。そして後者の後者はさらに少数であろう、というのかまだこれにはさすがに出会ったことが無い。で、この両者(「オタク的消費」する人としない人)の間において、その価値観というか認識の点で齟齬を起こすことが非常に多い。例えば上記の「趣味」の問題である。その対象が「趣味」ではなく、そこを超越した地点にある、ということが相手に全く伝わらず、一生埋まらないであろうディスコミュニケーション時空のようなものを形成してしまう。対象は異なっても「オタク的消費」を何らかの形でしている者同士は暗黙の和解のようなものがそこで生まれるのだが・・・。
で、なぜこういった話を急にしてみたかといえば、三浦しをんの『悶絶スパイラル』を読んで、それが非常に面白かったからである。三浦しをんは小説家であり、2006年度の直木賞作家でもある(wikiっぽい)。小説もなかなか面白いのだが(と言ってもまだ『格闘するものに○』しか読んでいないのだけれど)、この人はとにかくエッセイが面白い。というか抱腹絶倒である。なぜここまで面白いかと言えば、この人が物凄く漫画オタクであるからだ。つまりこの人はひたすら漫画に対して「オタク的消費」をし続けている人であり、その行動や考え、姿勢にとても共感してしまうところがあり、ついつい笑ってしまうのだ。例えば、ある駅で降りた場合、そこからまわることの出来る本屋をすばやく認識し、その本屋巡り最短ルート/コースを瞬時に叩きだすことを常にしているとか、身体の調子が悪いにも関らず、街から家に帰る前に必ず本屋に寄ってしまうとか、異様に安い値段で漫画の名著、もしくはレア本を見つけたときは一つ所有していても必ず買う、とか・・・このような場面は身に覚えがあるためか、とても読んでいて面白い。それ以外の話も面白いのだが、その面白さの背景には常にそういった「オタク的なもの」が潜んでいて、そこがたまらない。
最近、荒井由美の『コバルト・アワー』をやっとレコードで手に入れたのだが、これは本当に凄い。というかこれも凄い。その2週間前くらいに1stを買ったばかりで、それがそもそも凄かった。今までは4thしか持っていなかったのだが(勿論これも名盤)、やはりこの人のポップネス(ポップであるということ)はかなり独特である。そもそも文脈が見当たらない。無いはずは無いのでもう少し丹念に聴けば見えてくるのかもしれないが、しかしこの文脈の見えなさ、不可視性がまたポップスというものの魅力であろう。『ルージュの伝言』なんかは音像レベルで涙をそそる。僕という人間はジブリ・ノスタルジーには勝てないらしい。
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年始は実家に帰っていたのだが、その帰る過程で(正確には帰る過程ではないのだが)神戸電鉄に乗る機会が出来た。神鉄(=神戸電鉄)に乗るのは実に久し振りで、そもそも滅多に乗ることのないローカル電車であるため、電車の到着を知らせる音楽(正確には何と言うのだろうか)がどんなものかなんてすっかり忘れてしまっていた。で、鳴った瞬間に一人で少し笑ってしまった。その音が、奇妙な休符の介入によって見事なまでにヨーロッパ的な整合性のあるリズムから逸脱してしまっていたからだ。早い話がなぜか変拍子で、その一連の音に不思議な「揺れ」と「ズレ」を引き起こすということになっていたのだ。そういった感じで「何だこれ」、と思わず吹いてしまったのだ。
しかし、よく考えれば阪急電車の到着音も不気味である。不協和音とでも呼べるような和音を4連譜で鳴らすのを2回続ける、という何だか質の悪いミニマルミュージックを聴いているかのような印象を受ける。インパクト、というか要は電車が来た、という警告と告知を同時に人に行なうだけの印象付けを第一の主眼に置いているからああいったものが出来上がるのだろうが、あれを聴いているとどこかしら狂気の香りもする。作った人間の。
で、今回はこういった日常、というか日々のフィールドに潜む不気味で異常な音に偶然気付いたのだけれど、この「偶然」というところから解釈を拡大していくと、基本的にはあらゆる場所で不気味で異常な音が鳴り続けているということになる。そういった状況にあっさり溶け込み、何事も無いかのように、つまり「ノイズ」で埋め尽くされた環境が極めて「自然」(ここではそのままの意味で)な環境である、という日常を僕らは生きていることになる。別に文学的な言葉を練り上げたいわけではなく、ここで言いたいのは「フィールド・レコーディング」の濫用が見受けられる昨今のポスト・ロックには本当にウンザリだ、ということである。というかポスト・ロックだけでなく、エレクトロニカやらジョン・ケージもどきの似非前衛音楽にも当て嵌まる。
「フィールド・レコーディング」の意義をここで問い直すことはとてつもなく面倒な議論のような気がするのでやらないけれども、上記の彼らの音楽における「フィールド・レコーディング」の手法は明らかにおかしい。というよりも、一体何を意味するのかが根本的に分からない。彼らは自分たちが作ったサウンドと「フィールド・レコーディング」で採取した音を混ぜ合わせることに主眼を置いている。しかしそれに一体どういった目論見があるのだろうか。上記にある「日常に偏在する不気味で異常な音」の延長線上に自分たちの音楽は存在すると言いたいのだろうか。その延長線上に、自分なりに見出した音を何らかの形で提示したい、という欲望の顕れ、もしくはその序文としてあるのだろうか。それならば、まだその試みにある程度の評価は与えたいと思わなくはない。
しかし、彼らの「それ」はそうではない。彼らが採取した音からはその「不気味で異常な部分」がキレイに取り払われ、そこにあるのは形骸化し、空想上で消費されるだけの「日常の音」があるだけである。そこに自分たちの音を重ね合わせる。しかしその「日常の音」と「自分たちの音」には一切の「差異」は無い。その関係性に「差異」が存在しない限り、その二つの遭遇には何ら創造されるものは無い。つまり音楽的に全くの意味が無い、と言える。むしろ場合によっては「差異」が無い故に相殺しあい、音はどんどん劣悪な方向へと突き進んでいく。自分たちの音に「複雑性」や「前衛性」のイメージを与えるために、「フィールド・レコーディング」と言うポーズを用いることの無意味さや危険性に気付きもしていない連中が非常に多い気がする。こういったあたりがジョン・ケージを始め、インテリジェンスなイメージを髣髴とさせる現代音楽や前衛音楽のもたらした悪い一面ではないかとつくづく思う。
「自然」という言葉で思い出したのだが、最近レコ屋で、買おうか迷って視聴させてもらったものに、伝統的な楽器を非常に単調に(簡単に)演奏し、それをループさせ、さらに違う音を重ねまくって音響的なイメージを作り出そうとしているものがあった。確かアルゼンチンあたりのミュージシャンのものだったと思う。これはとてつもなくお粗末なもので、聴くに堪えない一品だった。これもこれで上記と同じく、全く意味のない行為の結果であると言える。いってみればこのミュージシャンは伝統的な楽器を用いることで「自然」の音を体現しつつ、それに現代音響的なことをやって、言うなれば「スピリチュアルな音響的サウンド」みたいなものを作ろうとしているんだろう。しかし現代における「自然」がとてつもなく「マテリアル」なものであり、伝統的な楽器が表現する「スピリチュアル」な音そのものがすでに「自然」ではない、という矛盾を引き起こしている。じゃあむしろそのスピリチュアルな自然へと回帰しようじゃないか、というのがこのミュージシャンの目論見ならば、いわばヒッピー達が称揚する「自然回帰」的なものと全く同じであろう。それは本当に、最悪なものであると僕は感じる。つまり全く前を見ない、懐古主義的な音楽そのものである。最も無価値ではないか。
というかここからとてつもなく主観になるが、僕は個人的にヒッピーという人種が非常に嫌いである。彼らの「自然回帰」というのは全く持って矛盾であるからだ。彼らの「自然回帰」的な行動が、資本主義に支えられている、という矛盾である。彼らは資本主義、及び物質主義を批判するものの、彼らの行動は資本主義下の世界ではない場所で、果たして成立するだろうか。いや、しない。彼らのやっていることは所詮、金持ちの道楽息子(もしくは娘)たちによるキャンプごっこに過ぎない。彼らは常に資本と国家の統御する福祉社会に回帰することが出来、またその保障の上で一時の戯れを行なっているだけだろう。その立場から資本主義や物質主義を批判することはお門違いである。また、彼らのコミュニケーションが完全に一部の閉じたコミュニティで完結し、そこから外部には飛び出そうとしない点から(あたかも大学のサークルのようだ)、引きこもり気味でネットの世界においてのみ他者とのコミュニケートが可能となるオタクたちと同じではないかとも感じる。ヒッピーたちはオタクなるものをも否定しがちだが、共通点はかなり多い。というかオタクは資本主義/物質主義をむしろ享受することを前提にしているという点でインターネット以降のヒッピーといえるのかも知れない。そういう意味で彼らは利口だし、従来のヒッピーはアホだと思う。
個人的な政治思想の立場が、リベラリズム(新自由主義/新保守主義的な)をポストモダニズムあたりの立場から批判を加え、再考するという感じではあるので、そういう意味でもヒッピーたちの存在の無意味さは目障りである。
最近、このブログタイトルの元ネタである蓮實重彦の『表層批評宣言』を読んだ。これが僕の初めての蓮實体験(?)なるものでもあった。この人の文体や修辞というのは、最初のとっつきは少し面食らうのだが、少し慣れると病みつきになってしまう妙な中毒性を持っている。浅田彰が『逃走論』で確か言っていたのだが、「蓮實中毒者」(浅田本人もそうらしい)はこの表層を蛇行しながら這うように、あたかも蛞蝓のような動きをしていく文章が原因で生まれるらしい。これは何となく分かる。今は外山滋比古の「思考の整理学」を読んでいる。これがまたやたら面白い本で、読んでいる頭の中の靄が霧散していくような体験が出来る。
今さっきのことだが、今更ながらもジョアン・ジルベルトの『三月の水』に感動してしまった。というか聴いたことは何度もあっても、ずっと持っていなかったのをつい最近買ったのだけれど、これにはやられた。「ギターも声も一切耳障りになり得ない作品」という評価を何かで受けていたけれど、それは決してBGM的である、という評価ではない。そのことに強烈に気付いた。つまり、どういうことかと言えば、あらゆる空間の隙間に、狭間に、入り込んでくるのだが、そこに違和感を与えず存在し続けることが逆に、倒錯的に聴く者を揺さぶるのである。そこに馴染んでいるのだが、常に現象として我々を揺さぶるのである(内容が「蓮實風」になっているのは僕が影響をすぐ受ける質ゆえ)。とてつもない音楽だと思った。アンビエントとかがやろうとしていることを、あまりに軽々と優雅に飛び越えて、その目的すらも無に帰してしまいそうな。
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