超表層的日常批評宣言

如何に卒業するかを語るわけではなく、如何に日常を生きるかを批評するわけでもなく、そもそもタイトルに意味が付されていない

自虐の詩批評宣言

 「日本一泣ける4コマ漫画」という題目で再び話題になった(主に映画化のおかげか)、業田良家の『自虐の詩』を読んだ。これはバイト先の人に勧められて、というのが主な理由なのだが。これは確かに良く出来ていた。泣ける理由も明確である。しかし僕は泣かなかった。いや、泣く理由が無かったのだ。そもそも「泣ける」という題目が付いたものに泣く必要性は必ずしも無いのだが。そしてこれを読んで泣かなかったことを大いに主張したいわけでも、また無い。というか「感動の超大作」を見て泣かなかったことを自慢するというのは、人間として中学生くらいで止めていただきたいものである。むしろ「泣ける理由は明確である」と前述したことに主眼点を置きたい。今回は、久しく日記らしいものを書いていなかったので、日記らしいものを書こうと思ってパソコンに向かい合っている次第なのである。

 『自虐の詩』の主題は、「人生には生きる意味がある」ということである。これは、とてつもなくこの作品の内容を大まかに捉えてしまった言い回しではなく、この作品全体を通して述べられる事柄がただその一点のみである、という意味で全く間違ってはいない。もしくは徹底して主観という立ち位置から、つまり完全に客観という他者を排除した状況下において述べられる「幸福論」である。この「幸福論」という言い回しは「功利主義」といった哲学的イマージュが介入しない、いわゆる日常的な側面での「幸福論」である(ここから類推して、哲学はやはり日常から乖離した、空論的、抽象論的な産物であると考えられる)。ちなみに、客観という他者、と述べた点で「読者」という立ち位置が問われそうではあるが、そもそも「読者」とはマンガ(及び作品)という構造からは最初からはみ出している、という点で他者でも私でも無い。どちらでもあるし、どちらでもないのである。

 では、なぜこれを読み、感動に震え、泣いてしまうのか。心理学的なパースペクティブはここで必要とされない。日常的な言語で解読されうる。生きている人間は誰しも、恐らく誰しもがそれなりに「人生における生きる意味」というものを自分で考え、持っているものである。しかしそれは、あまりにも不完全であり、不安定であり、解体と再構築の中間地帯を彷徨いがちな抽象的な信念でしかない。そこに明確さというものを見出すことの困難さ、というものは確かにあろう。そしてまた、これが明確で無いからこそ、それが精神にもたらす不安定さに日々恐れなければいけない(意識的に、または無意識的に)。その極点に位置するのが「死」である。そしてその「死」の観念は、その精神の不安定さ、つまり「生」の観念に対する不明確な肯定を起点にしてにじり寄ってくる。

 しかし、このマンガはその不明確さを、その作品全体を通して徹底的に排除してしまう。ある種の狂気的な楽観主義だ、と言ってしまっても良い、というかその点で賛否両論になってはしまいかと勘繰ってしまうほどである。その「不明確さの排除」という構造をあらゆる読者に対して曝け出すのが、話題になっている「怒涛のラスト」である。この「怒涛のラスト」という言い回しはあまりに陳腐ではあるが、(ストーリーにおいて)そこまで溜め込んだエネルギーの惜しみない発散と、強靭なる表現の連続は美しく、そして暴力的ですらある。その強烈無比なエネルギーにあてられ、そこにおいて「何らか」の「人生を生きる意味」というものを眼前に突きつけられ、それを仮想的にも確信されられてしまう、その歓喜であり快楽である瞬間に人々は涙する、ただそれに尽きるのである。実際、このマンガのサブテーマとして「愛されることへの渇望」という『北斗の拳』を彷彿とさせるものもあるが、そのサブテーマは結果として「人生を生きる意味」に還元されるものであろう。

 で、なぜ僕は泣かなかったか、というより泣く「必要」が無かったか。それは、「分かっていたから」というとても陳腐な理由からである。言い換えれば、「人生を生きる意味」というのが自覚的なレベルで溢れかえっているからである。おそらく、こういった思考をあらかじめ持ってしまっている人間にとって、『自虐の詩』は面白い作品ではあるが、泣くほど感動的な対象ではない。なぜなら「生きる意味」を確信させされる瞬間が無いからだ。それは「常に快楽的である」という意味で、麻酔を投与された状態がずっと続いているような状態とも言えるかもしれない。

 実際、今現在(そしてしばらく先まで)僕にはどうにも「死ぬ」理由というのが事故以外で生成されそうに無い。両親は生きているし(こういった点は非常に儒教的)、聴くべき音楽はまだ既知/未知の両意義で残っているし、自分がやれる演奏の臨界点もまだまだ遠い。読みたいが読んでいない本など、もはやどこまで行っても辿り着けそうに無いレベルで残存している。また、今まで深く関っていないが関心は深い、という意味で映画なんかはスタート地点に程近いし、オタクカルチャーの先行きは気になってしょうがない。まだ口にしたことも無い美味なものへの飽くなきグルメ欲はどうにも収まらないし、何より世の中には可愛い女性たち(年齢不問、下限上限問わず)が溢れかえっている。このうちの全部が瓦解してしまえば死ぬかもしれないが、一つでも残ればそれなりに快楽的に生きていけるであろうと思う。例えば、聴くべき音楽も無くなり、演奏意欲も枯れてしまったところで、それが「死」に値するかと言えば、そんなことは全く無い、と答えざるを得ない。

 しかし、こんな感じで今日はいかにも日記らしい代物を書いてみたものの、やはり読み返してみると何とも妙な気分になる。何と言うか、主観が強過ぎてゲンナリしてしまうというか。まあそんなものか。ナルシズムの極致に立てば楽しく読めるのかもしれない。まあこのブログ全体がある一定のナルシズムに支えられているのがけれど。

テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記

あずまんが大王批評宣言

 『あずまんが大王』を今さら批評しよう、などという行為は随分前から幾度となくあらゆる誌面で、書面で行なわれていたことであり、あまりにも時流に乗り遅れた行為であろう。また、「あずまきよひこ」という一人の漫画家を取り上げ、彼の現在の漫画、及びアニメに対する余りある影響力について言及するというのもまた、使い古されてしまったテーマではある。それでもやはり、僕という人間がいわゆる「萌え」という観念に対して深い関心を抱き、またこの「萌え」という観念を理解/収容してしまった基点として、そしてそれ以降の僕の漫画に対する態度決定の一つすらも生み出してしまったこの漫画、及び著者に関して述べずにはいられない、というのが今回の日記を書くことになった経緯である。

 そもそもこの「萌え」という観念、及び感情に対して何かしらの説明/解釈を与えることは難しい。なぜならばこの感覚というのは決して単元的な生成によるものではなく、多元的な感情的発露による非常にハイブリッドな言語表象である。最近の出版物の中に「萌え」という観念を単元的な意味合いで言語化してしまうものを見受けることが多いのだが、それは間違いである。とまでは言わないものの、議論の幅を非常に狭くしてしまうという意味であまり感心しない。例えば、ササキバラ・ゴウの『<美少女>の現代史』なんかはその例であり、「萌え」という観念を一元的に集約してしまったがために、解釈の幅自体が窮屈なイメージを与えるものになってしまっている。また彼はアニメ・マンガ史を一つの歴史として捉えて、現在にその反映を映し出そうとしているが、その点でも納得がいき難い。個人的にはアニメ・マンガ史というのは現在的視点から捉えた場合、それは断片化された記号群に過ぎない。つまり「歴史」という大きな物語ではなく、こちらから自由に引用可能なデータベース群に過ぎないということだ。そういった点からこの書物は多少なりとも退屈なイメージを与えるものであった。しかしここではそれについて深くは触れない。

 話を戻し、『あずまんが大王』に戻ろう。いや、そもそもこの論稿においてはあずまきよひこの作品群を通して話を進めていきたい。まず最初に述べておきたいのは、現在のいわゆる「萌え4コマ」というスタイル(「4コマ」と明示しているものの、実際にそこに制限は無い。つまり1ページであろうが5ページであろうがそれは構わない。要はこのスタイルが生み出した作品群のことを指す)を読む場合、結果としてあずまきよひこに始まり、あずまきよひこに終わる、ということである。シンプルな話、彼以上にこのスタイルにおいて、作品のクオリティを異常な高さで維持しているものはいない、ということである。逆にいえば、他のものを読むとどこかがっかりとした印象すら受ける、ということにもなる。あえて彼に追走するだけのハイ・クオリティの作品を挙げるとするならば、ばらスィーの『苺ましまろ』くらいであろうか。この作品もまたこのスタイルのマンガの中では突出した存在ではあるものの、いかんせん著者がひどく遅筆だというのに多少の問題がある。どこかの少年漫画を想起させるものである。

 では、なぜあずまきよひこの作品がここまで優れているのか、そしてその異物性について考えたい。あずまきよひこが提示したと考えられるこの「萌え4コマ」は、明らかにそこまで存在したいわゆる「萌え」を発露するマンガ、というものからは距離をとる。それまでのいわゆる「萌え」の王道というのは、一人の男性主体に対して多数の美少女主体が関係していき、その関係性の中で「萌え」が表象するといういわゆる「ハーレム型」というやつだ。これは非常に古典的なスタイルでもあり、紆余曲折を得て様々な昇華を繰り返し、現在の「ハーレム型」の萌えマンガに繋がる。
 例えば、赤松健はそのスタイルを貫くことによって、現在連載中である『魔法先生ネギま!』において(面白いかどうかは別にして)大きな成功を得ている。ここで赤松健がそのスタイルをさらにシャープにするために(つまりはより大いに「萌え」るために)とった手段は、主人公である男性主体の「最小化」である。つまり読者の視点の代替的存在でありながらも、つねに読者に対してある一定の妨害主体ともなりうる存在を最小のレベル、つまりは(「男性」とは言えない)少年にまで押し込めたことである。それによってその「萌え」の抑制装置を最小限に抑える、という試みが、この作品の成功した一つの要因であろう。他には読者が「萌え」る主体の数を最大限に増やそうとした、なども挙げられるが、ここでは深く述べない。

 では、『あずまんが大王』はこの古典的な流れからいかにして逸脱したのか。非常にシンプルである。男性主体を排除してしまったのだ。通常、古典的な萌えマンガは「恋愛」(もしくはそれに類似した感情)という関係性の中で「萌え」という観念を発露していく。しかし『あずまんが大王』において、それは不必要な観念として投げ棄てられてしまう。そこはほぼ男性という主体が介入しない世界の中で繰り広げられる日常群なのだ。そしてまた、そこで多用されるであろう、「百合」という恋愛的関係性すら介入させない。唯一そういった感情をもった登場人物はあくまで脇役に徹し、またそういった部分というのは結果的にあまり表面化しない。この点においては、男性主体の最小化を目論んだ「ネギま」も近いものがある。
 つまり、女子高生(約一名小学生)という主体のみで構成された、極めて平板な日常をただひたすら描き続けたというマンガではあるが、そこに読者は「萌え」を見出してしまう。そして何よりも面白い。では何が面白く、また「萌え」るのだろうか。

 「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるものの、やはり私達が面白いと感じてしまうものは、主にその事実からはみ出したフィクショナルな部分である。先程、僕は「日常」と書いたものの、このマンガもはやりその日常には収まらない奇妙な異物感において、その面白さが発揮される。例えば、このマンガの舞台は女子高ではなく、共学の高校である。共学の高校であるのに関らず、男性主体は排除されている。また、小学生の年齢(11歳)で飛び級して高校に入学した女の子が普通に登場する(そしてこの子に読者は一番萌えてしまうという始末)。そして何よりも日常に対して違和感として存在する事実は、彼女達はみな記号の集合体である、ということである。そこまでのマンガ、つまり手塚治虫以降のマンガは基本的にみなマンガの記号化を推し進めてきたといえる節はあるのだが、しかしどこかしら人間的な差異を維持しようとしてきた、ということもまた言える。しかし、あずまきよひこはここで人物の記号化をあえて徹底してしまったのだ。
 つまりこの時点で登場人物である彼女達は「彼女」ではなく、「彼女という記号」と化す。そしてその「彼女という記号」は様々な「記号」の集合体である「記号」であり、またそれは様々な「萌える記号」の集合体ともいえるわけだ。それを各登場人物に振り分け、均等にバランスを取りながら「記号としての差異」を与える。その差異に我々は「萌え」、またその差異によって織り成されるダイアローグやモノローグ、行為を楽しむことになる。こういった楽しみ方というは、そこまでのマンガ・アニメが徐々に形成/用意してきたものであるという意味で、マンガ・アニメ史観的な視点も必要であるともいえるかもしれないが、どちらにしろ『あずまんが大王』が登場した2000年代という時代の節目を必要としたとは言えるのではないだろうか。こういった点から『あずまんが大王』はマンガ・アニメのポストモダンの一つを提示した作品であると言って問題は無いだろう。

 僕はこの『あずまんが大王』と出会って以来、「萌え4コマ」というスタイルのマンガにある種の執着のようなものを持って接してきている。そして高い確率において失望を繰り返すことになっている。一般的になぜか「マンガの記号化」というのは容易に考えられてしまっているが、この手法を通してマンガを面白くしようというのはかなりの技術/センスが必要である。特に「萌え4コマ」というジャンルにおいては、その話を一回性という限度の中でいかにしてまとめるか、ということに関してかなりの難しさがある。ただ萌えればいいというわけではない。というか面白くなければ萌えない。ここで多くの漫画家たちは躓き、失敗を繰り返していく。
 こういった点でかなりのレベルの高さを維持しているのは上記に挙げた『苺ましまろ』である。これとの出会いは『あずまんが大王』、そして同じあずま作品である『よつばと!』以来の衝撃であった。これについて述べだすとまた長くなりそうなので控えるが、同じマンガはなかなか読み返さない僕が3度ほど読み返しているという強者である。そして今挙げたが、『よつばと!』はあずまのさらなる可能性への挑戦という意味でも非常に優れた作品である。おそらく『あずまんが大王』を超えていると言えるだろう。マンガのアンビエンスへの挑戦である。

 しかし、実際この「萌え4コマ」というジャンルの持つ「一回性の快楽」というのは非常に心地が良いものである。優れた短編小説に出会えたときに近い感覚がある。優れた短編小説と言えば川上弘美の『龍宮』を最近読んだのけれど、これが非常に良かった。あまりにエロティックで、そして彼女らしい幻想的な世界観。これほど美しく、官能的で、強烈な小説群にはそうお目見えできない気がする。川上弘美は非常に良い作家だと思う。

締めに最近好きな漫画(あずまきよひこ以外)を無意味に列挙してみよう。

西島大介:記号化の徹底の先に批評性を備えさせようとする試みに好意と応援お送りたくなる

オノ・ナツメ:記号的な感覚を用いながらもそこに男性的エロスの存在とスノッブな空気感を自在に導入する

こうの史代:高野文子以降の直線的な系譜として、そしてそこに強烈な感情の代入すら厭わない

小玉ユキ:あまりにも瑞々しい感性と文学的で繊細な物語を丁寧に紡ぐ

中野シズカ:偏執的なまでの作業工程と、抽象的なエロスに対して非常に真摯な姿勢を貫く

山川直人:童話性、しかしあまりにも生々しい、あたかも稲垣足穂の短編のような。

志村貴子:モノローグの切れ味は、その切り捨てられたはずの言語に宿っているかのような鋭利さを持っている

五十嵐大介:強烈さと繊細さ、生命という根源自体に切り込もうとするその画風には圧倒される

広江礼威:B級映画の持つその強度とは一体何なのか。それを教えてくれるかのような作家。

 一人一人について書いてみたい気もするが、疲れそうなので少し考える。

テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記

インプロヴィゼーション批評宣言

 テストも終わり、何となく生活全体に余裕のようなものができたので久し振りに日記を書こうと思う。とは言えど、生活のペース云々に関しては以前と対して変わるわけでもなく、というか以前から時間的な余裕と言うものはあり続けていたので、ただ単に僕自身の怠惰がもたらした日記更新の停滞である。

 で、今回はインプロヴィゼーションについて書こうと思う。しかし「インプロヴィゼーションについて書く」とだけ言い切ってしまうと、何とも長大且つ壮大な代物になってしまう(実際デレク・ベイリーはそれだけで一冊の著作と書き上げ、さらに余白を残しているように思われる)。そこで今回は羽野昌二の演奏を中心に、現在進行形のインプロヴィゼーションの概念的な部分について少しでも肉迫したい。
 そもそも何故ここで羽野昌二を中心に据えるかといえば、まず第一の理由として、2/1に京都の「パーカーハウスロール』で彼の演奏を観てきたばかりであり、そのときの感触は今もってなお鮮やかであるからだ。また、その日はオーストラリアから来た24歳の二人組みを始め、いくらかの共演者を伴ってのものだったが、それ全体を述べるとなるとこの論稿そのものが非常にマクロ且つ外面的なものになってしまう。それは今回望むものではないし、マクロで外面的な話なら酒の場でも可能だ。だからここでは、その日の演目の一番最初に行なわれた羽野昌二のソロ・ドラム・インプロヴィゼーションのみを取り上げたい。
 また第二の理由に、僕が羽野昌二の演奏を観出してからちょうど一年と少し経ったという、ある意味ちょうどよい時期的な節目に当たるからである。彼の演奏はこの一年のあいだでさえ常に変化し続け、そしてその演奏は深化と進化を繰り返し続けている。この点でも現在進行形のインプロヴィゼーションを思考する一つの手段として、または決起として、これ以上に相応しいものもあまり見当たらないだろう。

 2/1の羽野昌二の演奏は、その日の最初の演目ということもあってか、あたかもライブハウスという「場」に存在する「邪悪なるモノ」に対する「悪魔祓い」のように感じた。古く使いまわされた言い回しではあるが、ライブハウスやステージには「魔」が存在する。これはオカルト的な意味合いではなく、その場に存在する観客や演奏者、楽器、空間における相互的な関係性によって生まれる「何か」であり、その日、そこで、その瞬間にしか存在しない特質的な空気であると言えば良いのだろうか。その「何か」が常に演奏者の演奏に、聴衆の態度に関係性を求め、にじり寄ってくるのだ。その空気の様相をした蛞蝓のような存在が、場合によっては未熟な演奏者の集中力を散漫にしたり、演奏者間の刹那的な共時性に介入して、阻害を企てる。その存在こそが「場」における「魔」である。特に即興演奏という名そのままであるインプロヴィゼーションを行なう「場」にとっては、その「魔」と上手く折り合いをつけなければいけない。
 そして、その日の羽野昌二の演奏はまさにその「魔」を祓ってしまったように、僕には思えた。彼の、その沸点における適度な自己抑制と拡散の絶妙なバランス感覚によって生み出される演奏は、その放出する過度ではないが強烈無比なエネルギーによって、その場に存在した「魔」は完全に取り払われてしまったように思えたのだ。これはある意味、感動的であった。それはあまりにも音楽の「力」というものをまざまざと見せ付けられたかのような体験であったからだ。美しい瞬間であった。

 では次に、その羽野昌二の演奏が、いかなる形で、いかなる意味で現在進行形のインプロヴィゼーションの中でも強烈な印象を与えているのか、そして音楽そのものに対していかなる可能性と深い言及を提示するものなのか、考えていきたい。
 ここで、まずデレク・ベイリーが標榜した「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」が、インプロヴィゼーションに対して、またその当時の音楽体系に対して、どのようなアプローチを取ろうとしたのかを非常に簡潔に述べる。
 彼はその演奏形態を「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」と冠したように、即興演奏というカテゴリーにおいて、また音楽総体において常に言及され、意識され続けていた「イディオム」というものを、演奏から排してしまおう考えた。「イディオム」とは、もっと一般的な言い換えを行なえば、例えば「ジャンル」という外部的な(内在的な)演奏形態の枠組みや、あらかじめ決定された和音や演奏パターンといった、音楽を演奏する上で一定の枠内に演奏者を限定してしまう、演奏上の抑制装置のことを指す。デレクはこれを解体しようとした。また、この「イディオム」を形成するものの主要因として「記憶」が挙げられる。つまり「記憶」が演奏を常に一定の枠内に限定し、抑制してしまう装置であるとも言える。結果として「ノン・イデオマティック・インプロヴィゼーション」とは、自己の「記憶」という抑制装置から音楽を開放し、「身体」のレベルへと移行させようとした運動であったといえるのではないだろうか。
 この理解は主に彼の著作である『インプロヴゼーション‐即興演奏の彼方へ‐』を通しての理解である。いや、もしかしたら僕個人が歪曲しているかもしれない。デリダで言う「誤配」である。しかし、実際の彼の演奏聴いていく上で、彼は更なる高みへと近づいていたのではないだろうか、とも思う。

 羽野昌二に話を戻そう。彼の演奏はデレク・ベイリーと同じ位置に立ち、なおかつその先に進もうとしている。ここであらかじめこう言い切ってしまおう。では、どういった点でそういえるのか。内部に切り込んでいくとする。
 そもそも彼(羽野)の演奏は「記憶」という抑制装置からは開放されている。それは一聴すればよく分かる。つまり「記憶」という存在は常に音の中に偏在しているのだが、それが解体され、断片と化し、再構成を行い、「記憶」の実態とは異なる「音」としてのアトムと化して聴衆を揺さぶる。それは極めて身体的な音楽表象であり、「記憶」のみで構成された音楽には放出できないだけのエネルギーが溢れ出す。僕が始めて彼の演奏を観たとき、そこに強烈な感銘を受けた。まさに初めての体験である。
 そしてここ最近の彼の演奏は、音楽における「身体」の解体すら行なっている。音楽的身体の断片化と再構成である。例えば「ガムラン」やアフロ・ポリリズムの集団によるパーカッション演奏を想像してみるとよい。ああいった演奏では常にリズム構築の主体である多数の個人が、それぞれのリズム感覚の微妙な「ズレ」や「揺れ」によって中心的なリズム感覚から散逸していき、多様なるリズム体をそれぞれに生み出していきながら、さらに音の再構成とアトム化を収束的に行なう。これによって異様な陶酔感と興奮を聴衆は感じるわけである。つまり、祭儀的な音楽や伝統芸能と同じ潮流ともいえる。これはおそらく西洋的整合性のもとでは生まれない感覚であろう。
 そして羽野昌二は、この「多数の身体による音とリズムの解体→再構成」という、多元的なリズム構築をたった一人で、一つの身体においてやってのけてしまっているのだ。これはまさに、ノン・イデオマティック・インプロヴィゼーションが「記憶」の解体という目的から「身体」へと漂流した先のレベルである、「記憶」と「身体」の解体におけるインプロヴィゼーションと言えるのではないだろうか。最近の羽野昌二の演奏はこの点が顕著になってきているように感じ、僕個人としては非常に面白い。いや実際、音楽における「記憶」と「身体」の解体は、ポスト・ミュージックにおける可能性を考える上で非常に重要な争点ではないかと思う。

 久し振りにガッツリ書いたように思う。そしてこれを書くのに妙に体力を奪われた。インプロヴゼーションは体力が資本とも言えるので、そういったところからくる疲れなのか。まあどうでもいいが。しかし最近は、個人的には「ニュー・イデオマティック・インプロヴィゼーション」とでもいうようなものを構想していたりもするが、結果的にはやって何ぼの世界なので思考上の構想は後付にすべきであろう。まあ意志的なものである、と捉えればまだ意味があるのかもしれないが。

 今日、人生で初めてライトノベルを読んだ。300ページはあったのだが、空白とダイアローグが非常に多いためすぐに読めてしまう。内容も軽いのがそれに拍車をかける。「ライト」ノベルゆえか。野村美月の『“文学少女”と死にたがりの道化』という作品で、「文学少女シリーズ」というシリーズの第一作目らしく、そのシリーズ名に惹かれて買ったのは言うまでもあるまい。あと、宝島社から出てる『このライトノベルがすごい!2008』で作品部門上位に入っていたことも影響しているが。しかし、正直あまり面白くなかった。読む意味があるとすれば、最後の3〜4ページだろうか。それも太宰治は『人間失格』しか読んだことのない、もしくは太宰のイメージが『人間失格』に集約している人に読んでいただくには良い、というだけで。
 太宰と言えば最近アニメの第二期が始まった『さよなら絶望先生』は、『人間失格』という作品が持つ底抜けの滑稽さを上手くデフォルメし、アクロバティックに再現しているように見えてなかなか良作だと思う。

テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記

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