先月号か今月号かは定かでは無いのだが、スタジオボイスで『オルタナティブ・ミュージック』という特集を組んでいた。何を今更、と思いつつパラパラと立ち読みで済ましてしまったのだが、読み終わったあと、何か違和感が残った。それは勿論、そのオルタナティブ・ミュージック第1位というのが、this heatやP.I.Lを差し置いてbattlesの最新作である、というまことにあり得ない雑誌上の決定もさることながら、そういったbattlesやらfridgeやらのポストロック勢という、なんとも2000年以降に出てきた感がプンプンする音楽に対して「オルタナティブ」という言葉が冠せられていたからである。
しかし、最近のスタジオボイスは退屈である。どこが退屈かと挙げだせばキリが無いものの、やはり特集の内容が全てある意味保守的である、ということと言えるのではないか。別に保守を非難しよう、という一つ聞き間違えれば政治への批判活動に間違われそうなことをしたいわけではなく、ただ単にそのスタジオボイスの退屈さに辟易としている、というだけだ。いや、辟易してはいないのだが(ほとんど読んでいないので)。ただ雑誌のサイズが変わる以前の、つまり編集長が代わる以前のスタジオボイスはときどきひどく刺激的な特集を組んでいた。例えば『ノー・ニューウェーブ特集』なんかは往年の(僕が生まれた頃の)フールズメイトを彷彿とさせるものであった。今ではフールズメイトもヴィジュアル系の専門誌と化しているが。しかし、今のスタジオボイスは、何というか、一部のサブカルチャーにおけるグールーたらんとしているようにも見える。90年代という失われた10年間への(ある意味美しい)ノスタルジーと2000年以降への虚無的な希望を掲げて。
話を元に戻そう。2000年以降の音楽にオルタナティブという言葉を冠することに対して、僕は非常に違和感を覚える。なぜか。答えは簡単である。2000年以降、オルタナティブな音楽は生まれ得ない、もしくは非常に生まれにくい状況にあるからだ。そもそもオルタナティブ・ミュージックとはどこにも属さない、何かしらズレてしまっている、そしてそれ故に強烈で刺激的な音楽のことである。またオルタナティブ・ミュージックは評せない。完璧に評してしまうことが出来ない音楽である。それはどの境界にも属さないし、どの言葉から軽やかに逃げ去ってしまうからである。例えば僕は今までthis heatを上手く評した文章や言葉に出会った例がない。どれもどこか戸惑いを隠せず、それ故に言葉自体がブレていた。またエレクトリック時代のオーネット・コールマンもまたオルタナティブな音楽の良い例である。その時代の彼の音楽は「オーネット・ファンク」と呼ばれていた/いるが、実際その音楽にファンクの印象は無い。壊れた何かがあるのは確かだが(そして物凄い)。つまりこれも言葉で評せなかったのである。
しかし2000年以降の音楽に、言葉では評せない何かがあるだろうか。いや、2000年以降の音楽は全て言葉で評せてしまう、そういった面がある。確かに結局は聴かなければ分からないのが音楽である、という最も基本的なところは変わらないが(当たり前である)、それでも言説は音楽を評してしまうことが出来る。少なくとも70年代や80年代のオルタナティブな感覚は無い。なぜ、そうなのか。答えは非常にシンプルである。「全て出尽くした」からである。これは非常に誤解を招く言い方ではあるが、あえてこう言い切ってしまう。それはオルタナティブな音も含めて、出尽くしたのだ。それが現況である。そういった状況下でさらにオルタナティブな音は果たして生まれるのだろうか。これはひどく難しい。
しかし、これは何も絶望的な状況を示してるわけでも、音楽の終焉を予期しているといった大それたものでも無い。そんなことを言い回るのはインテリ気取りの客観主義者がやっていれば良い(自分で言っていて何か引っ掛かるが)。そもそも音楽を進めるべく音楽がオルタナティブである必要がある、と誰が言ったのであろうか。それはどこぞの前衛音楽の妙な通念では無いだろうか。それは間違っている、とまで言い切るほどでないものの、少なくとも正しくは無い、と言えるだろう。我々は音が「出尽くした」状況にいるが、それは音楽が止まった場所にいるわけではない。ただ単に、これまでの音楽史、とでもいうような何らかのデータベースを得たに過ぎない。逆に言えばデータベースを得たことによってそこから自由な引用と自由な解釈が可能となり、より広い道に出たと言えるのでないだろうか。そこから生まれるものはオルタナティブな音楽ではなく、ハイブリッドな音楽である。これは言説の側にも言えることであり、演奏者と同様にデータベースを得た彼らは自由にその新しいハイブリッドな音楽を解釈し、評し、解体していく。ここでまた言説と音楽は新たにハイブリッドな関係性の形成さえ可能であるのではないか。言説と演奏はさらに距離を縮めていくかもしれない。ここには何も否定的なイメージは存在せず、ある種のただ強烈な肯定のみが存在する。
確かにオルタナティブな音楽が生まれないわけではない。例えば『EMBRYONNCK(Embryoとno neck blues bandの共演作)』は2000年以降の数少ないオルタナティブ・ミュージックであった。未だにこの音楽をどう評せば良いか分からない。民俗音楽的なパーカッションに現代音楽的な反復性、そして肉体性の強烈な現前・・・しかしあまりにもこれではその音楽を語り切るのに乏しい。しかしそれでもこれは稀な例であり(そもそもオルタナティブ・ミュージック自体、稀だが)やはり時代は(あえて時代と言ってしまおう)ハイブリッドな方向へと向かっているし、我々もやはり向かわざるを得ないのではないか。そこにまた何か新しい音楽の可能性は見えてくるような、そういった気がするのである。
僕はこの文章を書く上で、ただ単にスタジオボイスが誌面でオルタナティブ・ミュージック、という言葉を使ったことに何らかの抗議めいたものをかましてやろう、みたいな気負いで書いた、ということが何だかんだで底辺にあるように思う。それは現行の表層的で薄氷のようなサブカルチャー・ムーブメントに対して、またその流れの中でグールーたろうとするスタジオボイスに対する、ささやかな僕なりの抵抗なのかもしれない。それはとても馬鹿馬鹿しい。が、どこか楽しいものでもある。生来の天邪鬼的な精神性ゆえだろうか。
ちなみに90年代に流行った、俗にいう「オルタナ系」とここで言及しているオルタナティブは同一のものではない。いや、むしろかなり異なる。90年代のオルタナ、とは音楽一般に対するオルタナティブ、というわけではなく、その時代の手前で流行っていたロックとの差異を強調するために存在した「言葉」である。90年代ののオルタナ・ロックというやつは明らかにそれ以前のロック史の文脈上に位置し、その流れの成立していた音楽ではあったが(一聴すればすぐ分かる)、その事実が明白であった場合、マスに対してその音楽的な新しさとか、進歩性とか、刺激が薄れてしまう。それでは「新しい」ロックのジャンルとして成立しかねるため、評論家だかレコード会社の広報だかが苦肉の策として、「言葉」(つまり「オルタナティブ」という言葉)によって前時代のロックとの音楽的な差異化を謀ったと思われる。その結果が90年代のオルタナ、である。こういった意味ではこの「オルタナ系」とここで言及している「オルタナティブ」は全く逆に立場である、と言えるかもしれない。
ああ、そういえばその号のスタジオボイスで唯一つ、面白いところがあった。メインのランキングと別枠で、「日本のオルタナティブ・ミュージック」という項目も設けてあった。そもそも日本においてオルタナティブ・ミュージックなど存在しないのだが(フリー・ジャズシーンを除く)、そしてまたこういったことを言うと説明は必要だわ、その時代(要は70〜80年代のアンダーグラウンドシーン)の音楽に興奮してきた人に文句を言われそうな気がするわで、あまりその理由は述べないが、ぶっちゃけてしまえばその時代のアンダーグラウンドにまともな(まともな、というのは優れている、という意味)音楽はほとんど無かったし、今聴くと何の音楽的価値も無いようなものが多いからだ。恐らく彼らを高く評して未だに聴き続けている人たちはそこに自らのノスタルジーを重ね、それを楽しんでいるのではないか、と思う。これは非常に一方的な意見でもあるが。
いや話を戻そう。まあそういったオルタナティブな音楽など存在しない日本において唯一、オルタナティブな音楽を演奏するバンドがある。そしてそのバンドの作品がそのランキングの1位であった。これだけは評価しうる点である。そのバンドはゆらゆら帝国である。一体誰が、彼らの音楽を上手く評しうるであろうか。何もかもが、あらゆる点で境界を越境し続けている。その理由の一つには「ポップネス」が挙げられる。その「ポップネス」が余りに不気味であるのだ。それはあたかもcaptain beefheartのようだ。日本において、その存在自体があまりに特異であるフリージャズ・シーンを除けば、彼ら以外にオルタナティブな音楽は存在しないのでは無いか、と僕は思う。


