超表層的日常批評宣言

如何に卒業するかを語るわけではなく、如何に日常を生きるかを批評するわけでもなく、そもそもタイトルに意味が付されていない

インプロヴィゼーション批評宣言

 テストも終わり、何となく生活全体に余裕のようなものができたので久し振りに日記を書こうと思う。とは言えど、生活のペース云々に関しては以前と対して変わるわけでもなく、というか以前から時間的な余裕と言うものはあり続けていたので、ただ単に僕自身の怠惰がもたらした日記更新の停滞である。

 で、今回はインプロヴィゼーションについて書こうと思う。しかし「インプロヴィゼーションについて書く」とだけ言い切ってしまうと、何とも長大且つ壮大な代物になってしまう(実際デレク・ベイリーはそれだけで一冊の著作と書き上げ、さらに余白を残しているように思われる)。そこで今回は羽野昌二の演奏を中心に、現在進行形のインプロヴィゼーションの概念的な部分について少しでも肉迫したい。
 そもそも何故ここで羽野昌二を中心に据えるかといえば、まず第一の理由として、2/1に京都の「パーカーハウスロール』で彼の演奏を観てきたばかりであり、そのときの感触は今もってなお鮮やかであるからだ。また、その日はオーストラリアから来た24歳の二人組みを始め、いくらかの共演者を伴ってのものだったが、それ全体を述べるとなるとこの論稿そのものが非常にマクロ且つ外面的なものになってしまう。それは今回望むものではないし、マクロで外面的な話なら酒の場でも可能だ。だからここでは、その日の演目の一番最初に行なわれた羽野昌二のソロ・ドラム・インプロヴィゼーションのみを取り上げたい。
 また第二の理由に、僕が羽野昌二の演奏を観出してからちょうど一年と少し経ったという、ある意味ちょうどよい時期的な節目に当たるからである。彼の演奏はこの一年のあいだでさえ常に変化し続け、そしてその演奏は深化と進化を繰り返し続けている。この点でも現在進行形のインプロヴィゼーションを思考する一つの手段として、または決起として、これ以上に相応しいものもあまり見当たらないだろう。

 2/1の羽野昌二の演奏は、その日の最初の演目ということもあってか、あたかもライブハウスという「場」に存在する「邪悪なるモノ」に対する「悪魔祓い」のように感じた。古く使いまわされた言い回しではあるが、ライブハウスやステージには「魔」が存在する。これはオカルト的な意味合いではなく、その場に存在する観客や演奏者、楽器、空間における相互的な関係性によって生まれる「何か」であり、その日、そこで、その瞬間にしか存在しない特質的な空気であると言えば良いのだろうか。その「何か」が常に演奏者の演奏に、聴衆の態度に関係性を求め、にじり寄ってくるのだ。その空気の様相をした蛞蝓のような存在が、場合によっては未熟な演奏者の集中力を散漫にしたり、演奏者間の刹那的な共時性に介入して、阻害を企てる。その存在こそが「場」における「魔」である。特に即興演奏という名そのままであるインプロヴィゼーションを行なう「場」にとっては、その「魔」と上手く折り合いをつけなければいけない。
 そして、その日の羽野昌二の演奏はまさにその「魔」を祓ってしまったように、僕には思えた。彼の、その沸点における適度な自己抑制と拡散の絶妙なバランス感覚によって生み出される演奏は、その放出する過度ではないが強烈無比なエネルギーによって、その場に存在した「魔」は完全に取り払われてしまったように思えたのだ。これはある意味、感動的であった。それはあまりにも音楽の「力」というものをまざまざと見せ付けられたかのような体験であったからだ。美しい瞬間であった。

 では次に、その羽野昌二の演奏が、いかなる形で、いかなる意味で現在進行形のインプロヴィゼーションの中でも強烈な印象を与えているのか、そして音楽そのものに対していかなる可能性と深い言及を提示するものなのか、考えていきたい。
 ここで、まずデレク・ベイリーが標榜した「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」が、インプロヴィゼーションに対して、またその当時の音楽体系に対して、どのようなアプローチを取ろうとしたのかを非常に簡潔に述べる。
 彼はその演奏形態を「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」と冠したように、即興演奏というカテゴリーにおいて、また音楽総体において常に言及され、意識され続けていた「イディオム」というものを、演奏から排してしまおう考えた。「イディオム」とは、もっと一般的な言い換えを行なえば、例えば「ジャンル」という外部的な(内在的な)演奏形態の枠組みや、あらかじめ決定された和音や演奏パターンといった、音楽を演奏する上で一定の枠内に演奏者を限定してしまう、演奏上の抑制装置のことを指す。デレクはこれを解体しようとした。また、この「イディオム」を形成するものの主要因として「記憶」が挙げられる。つまり「記憶」が演奏を常に一定の枠内に限定し、抑制してしまう装置であるとも言える。結果として「ノン・イデオマティック・インプロヴィゼーション」とは、自己の「記憶」という抑制装置から音楽を開放し、「身体」のレベルへと移行させようとした運動であったといえるのではないだろうか。
 この理解は主に彼の著作である『インプロヴゼーション‐即興演奏の彼方へ‐』を通しての理解である。いや、もしかしたら僕個人が歪曲しているかもしれない。デリダで言う「誤配」である。しかし、実際の彼の演奏聴いていく上で、彼は更なる高みへと近づいていたのではないだろうか、とも思う。

 羽野昌二に話を戻そう。彼の演奏はデレク・ベイリーと同じ位置に立ち、なおかつその先に進もうとしている。ここであらかじめこう言い切ってしまおう。では、どういった点でそういえるのか。内部に切り込んでいくとする。
 そもそも彼(羽野)の演奏は「記憶」という抑制装置からは開放されている。それは一聴すればよく分かる。つまり「記憶」という存在は常に音の中に偏在しているのだが、それが解体され、断片と化し、再構成を行い、「記憶」の実態とは異なる「音」としてのアトムと化して聴衆を揺さぶる。それは極めて身体的な音楽表象であり、「記憶」のみで構成された音楽には放出できないだけのエネルギーが溢れ出す。僕が始めて彼の演奏を観たとき、そこに強烈な感銘を受けた。まさに初めての体験である。
 そしてここ最近の彼の演奏は、音楽における「身体」の解体すら行なっている。音楽的身体の断片化と再構成である。例えば「ガムラン」やアフロ・ポリリズムの集団によるパーカッション演奏を想像してみるとよい。ああいった演奏では常にリズム構築の主体である多数の個人が、それぞれのリズム感覚の微妙な「ズレ」や「揺れ」によって中心的なリズム感覚から散逸していき、多様なるリズム体をそれぞれに生み出していきながら、さらに音の再構成とアトム化を収束的に行なう。これによって異様な陶酔感と興奮を聴衆は感じるわけである。つまり、祭儀的な音楽や伝統芸能と同じ潮流ともいえる。これはおそらく西洋的整合性のもとでは生まれない感覚であろう。
 そして羽野昌二は、この「多数の身体による音とリズムの解体→再構成」という、多元的なリズム構築をたった一人で、一つの身体においてやってのけてしまっているのだ。これはまさに、ノン・イデオマティック・インプロヴィゼーションが「記憶」の解体という目的から「身体」へと漂流した先のレベルである、「記憶」と「身体」の解体におけるインプロヴィゼーションと言えるのではないだろうか。最近の羽野昌二の演奏はこの点が顕著になってきているように感じ、僕個人としては非常に面白い。いや実際、音楽における「記憶」と「身体」の解体は、ポスト・ミュージックにおける可能性を考える上で非常に重要な争点ではないかと思う。

 久し振りにガッツリ書いたように思う。そしてこれを書くのに妙に体力を奪われた。インプロヴゼーションは体力が資本とも言えるので、そういったところからくる疲れなのか。まあどうでもいいが。しかし最近は、個人的には「ニュー・イデオマティック・インプロヴィゼーション」とでもいうようなものを構想していたりもするが、結果的にはやって何ぼの世界なので思考上の構想は後付にすべきであろう。まあ意志的なものである、と捉えればまだ意味があるのかもしれないが。

 今日、人生で初めてライトノベルを読んだ。300ページはあったのだが、空白とダイアローグが非常に多いためすぐに読めてしまう。内容も軽いのがそれに拍車をかける。「ライト」ノベルゆえか。野村美月の『“文学少女”と死にたがりの道化』という作品で、「文学少女シリーズ」というシリーズの第一作目らしく、そのシリーズ名に惹かれて買ったのは言うまでもあるまい。あと、宝島社から出てる『このライトノベルがすごい!2008』で作品部門上位に入っていたことも影響しているが。しかし、正直あまり面白くなかった。読む意味があるとすれば、最後の3〜4ページだろうか。それも太宰治は『人間失格』しか読んだことのない、もしくは太宰のイメージが『人間失格』に集約している人に読んでいただくには良い、というだけで。
 太宰と言えば最近アニメの第二期が始まった『さよなら絶望先生』は、『人間失格』という作品が持つ底抜けの滑稽さを上手くデフォルメし、アクロバティックに再現しているように見えてなかなか良作だと思う。

テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記

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