確か6月のアタマであったか、京都近代美術館に「ルノワール+ルノワール展」を観に行き、そして今日美術館「えき」(京都駅の伊勢丹に入っている美術館)に「アルベール・アンカー展」を観に行った。どちらもそれぞれに面白く、また考えるところも少しはあったので、全くの門外漢ながら(いや、だからこそ)、ちょっとした記録として記しておこうと思ったのだ。
まず、「ルノワール+ルノワール展」に関して。これは印象派の画家における大家としても世間一般の常識として有名なオーギュスト・ルノワールと、その息子であり、映画監督であるジャン・ルノワールのそれぞれの作品を対比させながら、閲覧者個人々々が批評的にその作品群の外在的/内在的な共通性/差異性を見出していくというなかなか面白い企画である(多分)。画家のルノワールが有名、ということもあってかお客さんの入りが、僕が今まで近代美術館に行った企画の中では最高に多かった。今までのものはそんなにたくさん入るイメージの無いものばかりであった、ということもあってだろうが。
しかし僕は息子であるジャン・ルノワールの作品というものは『ピクニック』と『フレンチ・カンカン』ぐらいしか知っておらず、しかもそういう作品があるというのを「知っている」というだけでどちらも観たことは無く、という感じであったので、この企画展で初めてその作品群に触れたことになる。しかも断片的に。それでもかなり楽しむことが出来た。というか美術館側があらかじめオーギュスト・ルノワールの絵のモチーフを息子のジャン・ルノワールが映画に転用している、という共通性を閲覧者に示してくれているので、こちらとしてはどちらかというとストレートにその共通性に「はぁー」と感心するのではなく、その親子間における作品性の差異を見出すことに関心を傾ける、という方向に自ずからなったので、自分なりの楽しみ方でこの企画展を満喫させてもらった。
で、その差異性というのがシンプルに「官能」、というか「エロス」的場面における表現上の差異である。画家のルノワールはその色彩と表情、及び風景によってそのモチーフの中に存在しているエロスを隠蔽してしまう。それは確実にその場に存在していたはずなのだが(例えば、いくらかの裸婦画があるのだが)、ルノワールの絵の中でエロスはその存在を隠し、明示的な状況下から逃れている。しかしそれによって絵はルノワールのものとなっている、という印象を受ける。それに対し、映画監督のルノワールの作品は眼に明確に映るレベルでエロスが表象する。そしてそれは画面全体に、至るところにエロスを潜ませ、かなりの頻度で聴衆を挑発する。これはある種の「映画」という構造があらかじめ持ってしまっている、逃れられない(だからこそ美しい)機構なのかもしれないが、二人の「親子」という関係性の下にある作家の差異としては非常に面白いもののように(僕には)映った。
で、次に今日行ってきた「アルベール・アンカー展」について記したい。個人的にはさきほどの「ルノワール+ルノワール展」よりも感銘を受けた。というかシンプルにこの画家が好きになった。そもそもこれに行くきっかけとなったのは、同じバイト先の女の子に勧められ、また同時に割引券をもらうという幸福に恵まれた、という一連の出来事によるものであった。実際僕は彼女に勧められるまでアルベール・アンカーという画家は知らなかったし(アルバート・アイラーなら知っているが)、そもそも美術館「えき」に行ったこともまた一度もなかった。そういった意味でかなりその子のことを信頼して行ったわけなんだが、これはアタリであった。
アンカーはスイスの画家であり、彼の故郷であるスイスの田舎村の風景(主に人物)を書き続けた。そしてそのモチーフのほとんどが「少女」である。純朴な、素朴な、少女のそのままの風景を、自らの目を通して描き続けた。確かに少女以外をモチーフにしている絵もあったのだが、大体は少女モチーフであったし、やはりそういった絵が最も美しいと感じた。「アンカーの少女達」は、何の装飾もなく、ただ「少女」なのである。エロティックなプリズムを通してその内在的なエロスを表面化させたりするのでなく、ただそこにいる少女達を描くのだ(それは彼が写実主義に立場上近い、ということも関係しているかもしれない)。ただ素晴らしいことに、彼の絵の中では少女だけが「少女」なのではなく、母親であれ、老婆であれ、「少女」として描かれるのである。これは彼の個人的な観念が入り混じった表象なのかもしれないが、それでも僕はそれを美しいと思ってしまう。よく「男はいつまで経っても少年のままであり、女だけが先に大人になってしまうのだ」という言い方をされることがあるが、それは間違っており、「男はただ年を食うごとに度胸を失い、尚且つ頭が悪くなっていくだけであり、女はいつまでも根本的には少女である」のだと個人的には考えている。ただ前者の言い回しに絆され、焦らされ、自分が少女であっても良い、ということを忘れ、強制的に自ら歪めながら大人(のレプリカ)になっていくご婦人方が多くいることは嘆かわしいが。
話が少しずれてしまいそうであるが、とにかく僕はその「アンカーの少女達」の美しさに感動し、どうしようもなく心を揺り動かされ、「恋」とでも言えばよいのだろうか、いや「恋」と言ってしまおう、そう彼女達に刹那的に恋をし、その連続のなかで精神が昂り、危うく涙を流すところであった、という真に甘いながらも官能的な、そして辛苦すらも含有してしまう体験をしたのである。非常に素晴らしい絵画群であったので思わずアンカー展の図録を買ってしまった。
で、次の日記は本来この日記と同じ日に書いたのだけれど、蛇足としてはあまりに長く、不細工極まりないし、また内容に関してもえらく断絶してしまっているので、違う日の日記として分けた。たまには妙なことにもなるものだ、と感じる。


