超表層的日常批評宣言

如何に卒業するかを語るわけではなく、如何に日常を生きるかを批評するわけでもなく、そもそもタイトルに意味が付されていない

ライブハウス批評宣言

 そういえば一昨日くらいに久し振りに大阪のライブハウスに友人のバンドを観に行った。ロックを主に扱うライブハウスで、「扇町DICE」というところだった。そこに足を運ぶことによって、僕は一つの「絶望」を覚える。絶望、とは言い過ぎであろうか、落胆、という程度である。何に落胆したかといえば、そのライブハウスのシステムとでもいうのか、その運営構造とでもいうのか、はたまたそのスタンスとでもいうのか、とにかくそのライブハウスにおける演奏状況と観客の総合的な聴取姿勢、及びライブハウスとバンド間におけるヒエラルキー的なものの形成と、それによるそれぞれのバンド間におけるコミュニケーションの断絶、および批評性の皆無的状況、と挙げだせばキリが無いのだが、とにかくそういった、ライブハウスと音楽の取り巻く状況が最悪なところにある、僕には感じた。これはおそらくこのライブハウスに限ったことではなく、ロックを主に扱う、言ってみればロック出現以降の典型的なライブハウスの成れの果てに全て当てはまるのだろうけれども、とにかくひどい。
 
 その日に見た演奏がどれも凡庸極まる、というか刺激も無く、ロック的カタルシスも無く、ノッペリとした印象のみしか残さなかった、ということに関しては特に触れる気もないし、またそれについて書くだけのスタミナも無い。というか一転すればただの罵詈雑言にしかなりかねない、という無意味性の坩堝(るつぼ)に放り込まれそうなので控えたい。ただ一言添えるならば、僕はいくらかのポストロックに関する批判をしてきたけれども、かといってポストロックの意義を一切無視して何らかのロック的アクションを起こそうという姿勢はあまりに滑稽である、と言いたい。90年代初期のロックにおける本格的な死、及び荒廃的状況の中で、「ポストロック」と一括りにされがちな、ロックというゾンビに対する多様なるオルタナティブな音楽的アプローチは決して無意味ではなかったし、またそれが有効であると死に物狂いで死屍たるロックの可能なる連続性を信じ、起こした行動は今なお評価されるべきではあるのだ。どうもその点を、ある意味マッチョイズムな考え方で「外道である」と排斥し、思考の硬化を無意識的に行ってしまっているように見える彼らには一つ再考してもらいたい。

 しかし、そういった状況を生み出してしまっている原因の一つにも、現状のライブハウスのシステム、というものが挙げられる。そのシステム内での最大の問題点は、批評性の独占、およびそれを発端に引き起こされる批評性の皆無、という状況では無いだろうか。出演者に聞くところによれば、ライブ終了後、演奏者達はそのライブハウスの経営者にその日の演奏を批判され、あたかも相談に乗るかのように上部構造からの修正をそのバンドは施されそうになる。それはライブハウスという場所性を利用した、自らを上部構造に置き、下位にそのライブ出演者を置くことによって形成される悪質なヒエラルキーの創出を常に維持したいと考えて行なわれているように思えてならない。つまり裁定者は常に彼(=経営者)であり、それは客でもなく、他の演奏者でもない。リーズナブルな(バンド内だけでの)自己満足とたった一人の偏屈な裁定者によって成り立つ音楽が果たして面白いものになりうるだろうか。ならないだろう。またそのことによって批評性は「批評」と呼ぶにはあまりにナンセンスな「虚偽の助言」によってのみ独占され、真の批評性はその場から失われ、霧散する。つまり批評の独占によって各バンドは他のバンドの演奏を観る必要が無くなり、また観る意味自体が失われ、自ずと観客席からは足が遠のく。これによってそれぞれの未成熟過ぎる「音楽」たちはますます断絶の色合いを深め、バカの一つ覚えのように(それこそバカの一つ覚えのように)同じ演奏を繰り返す。僕は連続性の美学を語っているわけではないが、少なくとも「変化」と言う連続性には大いに意味があると感じる。徹底した断絶状況においては、その「変化」すらあまりに弱々しく、儚い。

 そういったライブハウスにおける真の批評がなされる状況は、決してヒエラルキーという閉じた状況ではなく、観客とのコミュニケーションや、他のバンドとの稚拙なる音楽的な批評の中から生まれるのではなかろうか。そもそも観客ですらただ受動的であってはいけない。能動的なる観客でなければならない、と言うのが理想なのだ。そして演奏家間の関係性もまた、受動的ではなく能動的な応酬を必要している。これは決して子供論、及び教育論に関するプリミティブな意見ではなく、ライブハウスというある種の機能的な死を迎えつつあるシステムへの緊急なる要請であるように思う。そしてそれはまた、今この時代に「ロック」を機能させたいと考えるノスタルジストたちへの提言でもある。

 そういった意味では、カフェやパブ(そしてそれに類するもの)といった場でのライブ演奏というものにはかなりの好意を感じてしまうし、また可能性も感じる。なぜならそこには批評性が僅かながらも存在し、また観客もただの受動的なる木偶ではない。そもそも「演奏」という行為と「聴取」という行為の間に連続性があることが大きい。そこには舞台的な意味も含めての「断絶」は無いからだ。たまにカフェ・ライブというものは非常にスノッブであり、また新しい流行であるかのように捉える人が多いが(特にロック方面の人に)、これは歴史自体がライブハウスより古いし、また絶えず行なわれてきた演奏形態であること考えれば、これに「流行の終わり」がすぐそこにある、という考えは荒唐無稽であろう。まあスノッブな場である、ということは少々認めざるは得ないが(しかし果たしてスノッブな音楽は問題であろうか。いやむしろ称揚しても良い。それはキップ・ハンラハンが第一線を張ってすでに証明している)。

 まあ結論として言い切ってしまえば、ライブハウスでのロックの演奏者達及びライブハウスの運営側は、極力僕に苦痛的な状況を作って欲しくないし、またそれなりに音楽的な意味での批評性を持たせてもらいたい、ということになる。僕としては余計とは知りながらもライブハウスというシステムの問題に対して思考を巡らすなんていう馬鹿げたことはしたくないし、また演奏者間での批評性の皆無に関してどこか物悲しい気分になるのもまたナンセンスだ。こんなことばかりではライブハウスに行きたくなくなる、というのも仕方のないことなのではないかと思う。

テーマ:大学生日記 - ジャンル:日記

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